『超人ロック』で有名な聖悠紀の弟のK彦氏は、我々の古いゲーム仲間で、「誤訳は新ゲームを生む」という名言を吐いた。
ゲームの明文化されたルールが、印刷物やインターネットで広く流布されるようになり、それを読んでゲームを始めるような状況が一般的になったのは、せいぜいここ二十年のことである。それまでの殆どの人類史では、ゲームは原則として口伝であった。そうして、口伝には、誤伝はつきものである。 世界の将棋類の原型が、インドのチャトランガにあったというのは、現在の定説である。原型は時代によって改良されていくのだが、現在の世界の将棋類を眺めると、時間軸より空間軸の改変が多く見られる。つまり世界のそれぞれの土地に独特の将棋が根を下ろしているのである。チェスのように、後から統一ルールが広まったものを除けば、この特徴はもっとはっきりする。この事実が物語るのは、伝達のときに改変が起こったと言う仮説である。 例えば中国の象棋と、韓国・朝鮮のチャンギを比べると、駒の数も種類も、盤の形も、そして初期配置も微妙に違うだけである。ところが、王将・士・象・馬・車・砲・兵卒と対応する駒を比べてみると、完全に一致するのは「馬」だけである。あとはよく似ているが微妙に違う(象だけは相当違うが)。その微妙な違いが、両者に大きなテイストの違い、戦略の違いを与えているのには、本当に驚かされる。両者はそれぞれに面白く、それぞれに戦略的で、多様性が豊かな魅力を生み出すことの実例になっている。 (ただしこれは、両者の魅力を共に知るものでないと、分かりにくい感覚でもある。) チャンギの原型が中国から伝わった象棋であるのは、間違いのないところだろう。では何がチャンギの魅力を生み出したのだろうか。語弊を恐れずに言うなら、私はそれを誤伝と見ている。 今から30年近く前に、我々の仲間ではブラックレディが流行した。ブラックレデイは、トランプのゲームであると同時に、このゲームの最大のマイナスカードである、スペードQの別称でもある。 ブラックレディの魅力も、知らない人にはわかりにくいだろう。現在ではウィンドウズにハーツが組み込まれているようなので、少しは分かりが早いかも知れないが、要するにトリックテイキングゲーム魅力の基本があり、その入門に最適なゲームなのである。 ブラックレディとハーツも微妙に違うのだが、ともあれブラックレディの魅力を知り尽くした者どうしでやるプレイは、かなりスリリングで、運と技量の適度に交じり合ったとても面白いものである。 当時のゲームグループは、3,4人から、8~10人程度が普通だった。もっと大勢になれば、山手線ゲームや、テレパシー、人名地名などのゲームがあり、7人までなら八八、8人ならブリッジのチームオブ4もあるが、10人ぐらいとなるとなかなか適当なゲームがない。ブラックレディを2テーブルでやるとか、要するに5人ゲームを2つやればいいだけのことだが、せっかくだから全員で一緒に遊びたいではないか。 そんなとき、私は本で「キャンセレーションハート」というゲームを見つけた。ハートの多人数用バージョンであるらしい。これだ!と思った。 キャンセレーションハートは、トランプを二組使うと言う。ここがまず魅力ではないか。ただし、そうすると全く同一のカードが出てくる。ではそのときどうするのか。 「全く同じカードが出たときは、それらはキャンセルしてトリックに勝たなくなる。」 と言う。これは面白い。ハートAを出しても、もう一枚ハートAが出れば、勝たなくて済むのである。ところがだ。そのようにして全てがキャンセルしたら、一体どうなるのか。全部キャンセルは珍しくても、キャンセルしたカード以外が捨て札などという事態は、ディールの終盤にはよく出てきそうである。そのときどうするのか。 本には何も書いていなかった。これでは困る。これではゲームが始められないではないか。 後で、分かったことは、全てキャンセルした場合(や、キャンセルしない札が捨て札の場合)は、そのトリックは「預かり」になって同じ人が改めてリードし、次に勝ったプレーヤーが「預かり」分も取るというものらしい。これはある意味、トリックテイキングの原則をかたくなに守っている。(捨て札が勝ったりしない。) だが当時は、全く正しいルールが分からなかった。 そこでルールを捏造することにした。 まず、スペードQが-13点でないのはパンチが足りないので、そのように改変した。これで名称も「キャンセレーションハート」でなく「キャンセレーションブラックレディ」にできる。 次にカードパスを導入した。(「キャンセレーションハート」はカードを回さない。)まず2枚、次に1枚を右隣に回すことにした。 そしていよいよ、リードされたスートが全てキャンセルされた場合だが、その場合は捨て札が勝つことにした。捨て札が複数ある場合は、スートに無関係にAKQJ109・・・のランク順に勝つことにした。そして捨て札はスートにかかわりなく、ランクが同じなら、何枚でもキャンセルすることにした。 そして、あるトリックで、全てのカードがことごとくキャンセルした場合は、例外的にリードした人が勝つことにした。これで完成である。 なかよし村の前身のゲーム会でやってみた。 最初の1ディールは、色々なキャンセルが起こって面白かった。意外なカードの勝つ可笑しみは、予想通りのものであったが、大いにウケた。(実は危惧もあった。こんな大味なゲームはつまらないと言われるかも知れないと思っていた。) ところが2ディール目に意外なことが起こった。それはハートAのリードである。これは無事キャンセルされ、ハートのロウカードが勝った。座は驚きから笑いに変わった。 その後、程なくして「愛のお手紙」も考案された。「目でわかって!」の名科白も飛び出した。座は笑いに包まれた。 一ゲームが終わる頃には、私は全く新たしいゲームの誕生を確信した。これは今までにないゲームである。それは新案ゲームというのにとどまらない。今までにないコンセプトのゲームだということである。 これはやったことのない人には、説明の必要があるだろう。 キャンセレーションブラックレディは、不思議な戦略の必要な、ある種のコミュニケーションゲームである。 例えばブラックレディのリードは、普通のルールでは考えられない。だが、このゲームではありえる。ここまではよい。だがそれは果たしてよい戦略だろうか。ブラックレディをキャンセルしてくれるならいい。だがそんな保証はどこにあるのだろうか。ブラックレディを誰も出してくれなければ、マイナス13点は必然的にやってくる。実にリスキーである。 この戦略の危険性は、もう一枚のスペードQを持っている人の胸先に、こちらの運命が握られているという所にある。ゲームにおいて、他人の恣意に自分の運命を委ねるほど愚かしいことはない。だが、自分がトップ目であったりしない限り、スペードQは出されるのである。どうしてだろうか。 このゲームを少しやり込むと分かるが、このゲームには、キャンセル以外の「絶対安心」が存在しない。自分がリードする場合は、稀に危険もあるが、このゲームではキャンセルしさえすれば、とりあえずそのトリックでマイナスを取ることはありえない。すなわち、プレーヤーは、あらゆる機会にキャンセルした方が身のためなのである。 逆のことも言える。もしキャンセルできるブラックレディを、あえてキャンセルしないで、今ブラックレディを出した人に取らせるとしよう。当座はそれでよいが、手にはスペードQが残る。このようなカードを「独身」のカードと呼ぶ。独身のカードは、トリックを取ってしまう危険性が高い。これは他のプレーヤーが、キャンセルを目指すプレーをすればするほど、高まるのである。ブラックレディを取らされた人は、復讐に燃えて(笑)次々スペードをリードするであろう。 以上を踏まえることによって、特に負けている人のブラックレディのリードは、安全なことが多い。だがそれが絶望的に危険なこともある。それは伏せられたウィドに、片割れのスペードQが眠っている場合である。だから最初からスペードQが2枚ある人は、そのうち1枚を隣に回すのである。これが「愛のお手紙」だが、愛のお手紙を送っておけば、ウィドにあることはあり得ないのだから、スペードQのリードは完璧だ。愛のお手紙に答えない者もまた、奈落に落ちるだろうから。 みんながキャンセルを目指すと、テーブルから目が離せなくなる。トリックの途中でウイナーはめまぐるしく変化し、最後の一枚まで安心が出来ない。スリルと笑いが溢れる。 キャンセレーションブラックレディの独自さが理解されたろうか。これはキャンセルの重要さを知悉している人たちとやることにより、独自のゲーム世界に到達するのである。そのようなゲームは、珍しいだろう。だが、そこへひとたび至れば、桃源郷である。 しかしながらこの桃源郷へ至る道は遠い。なぜならまずブラックレディの面白さやスキルに、全員がある程度は熟達している必要があるからだ。これが第一の関門だ。第二の関門は、そうした人たちが少なくとも七人以上は集まらなければできないという点だ。そして最後に、キャンセルの味をみんなが知ること、これが第三の関門になっている。 第三の関門を越えるのは容易だが、第一と、そして特に第二の関門を越えるのが大変だ。そのために私はそれ以来30年近く、まずブラックレディを普及することに努めてきた次第である。これはゆくゆくは皆を、桃源郷に導きたい一心からである。 私がキャンセレーションブラックレディを、私の考案であることを秘匿する理由は理解できるだろうか。 第一にそれが私の「捏造」あるいは「誤伝」によるものであるからだ。 第二に私の創作であるということを知った人が、この魅力的なゲームの減価要素とすることを恐れるからである。 第三に、このゲームの主たるそして類のない魅力は、決して私の意図的な考案によるものではないからである。発明ではなく、発見であり、それを創作とは名乗りがたい。 そもそもルールそのものも、組み合わせであり、オリジナルな要素は少ないのである。つまり創作ゲームとしては、キャンセルするべきなのだ。 だが、私はこのゲームを心から大切に思っている。 私は無神論者だから、このようなことを言うのは主義に反するのだが、もしゲームの神がこの宇宙に居るのなら、私がククに出会ったときも、ディクショナリーに出会ったときも、ドメモに出会ったときも、ライヤーズダイスに出会ったときも、アベカエサルに出会ったときも、チェーテンに出会ったときも、微笑んでくれたに違いない。だが最も満面の笑みを浮かべたのは、私がキャンセレーションブラックレディに出会ったときに違いあるまい。きっと、黒い女王のように、ニヤリと笑ったに相違ない。 【参考サイト】
【FGAMEログより】 キャンセレーションブラックレディ秘話 00/01/05 09:36 GCF01014 草場 純 秘話という程のことはないですが、キャンセレーションブラックレディ誕生 の経緯について書いておこうと思います。記録としての意義はあるでしょう。 ブラックレディは、なかよし村の村技とまで呼ばれたゲームです。 トリックテーキングゲームの原理と妙味を、初心の方に紹介するのに これほど適切なゲームはそう多くないでしょう。なかよし村では大会も あり、現在も進行中で既に22回を数えます。バリエーションも多く ドミノハートやオレゴニアンハートは、ものすごく面白いです。 さて、なかよし村も盛んになって、4,5人が7,8人の参加になって 来ました。もちろんブラックレディの卓を二つ立てれば済むことですが、 そのとき私は本で「キャンセレーションハート」というゲームを 知りました。これは大人数用のハートで、カードを二組(以上)使うと 書いてありました。これだ!と思いましたが、今も昔もそうですが、 本には肝心なことが書いてない。(この点は自分で本作りにかかわったら 非難できなくなりました(笑)。)それは全てのカードがキャンセル されたらどうするか、という点でした。後で赤桐さんに教わったところに よれば、そういうときはマイナス札は持ち越しで、最終トリックでそれが起きたら (最終トリックでは起きにくいけど)マイナス札は消滅というのが、 本来のキャンセレーションハートのルールらしいです。でも当時は それが分かりませんでした。そこで私は、全てのカードがキャンセルされたら 捨て札のランクをスートを無視して見ていこうと考えました。この際、 捨て札はスートに無関係にキャンセルされるとしました。3枚以上の キャンセルもあり得るようになった訳です。そして捨て札もキャンセルされたら リーダーの勝ちとしました。(あくまでトリック持ち越しという発想は 出て来ませんでした。余談ですが本来のルールははげたかに似てますね。) さてこれでやってみたらバカウケでした。本来のキャンセレーションハートでは カードパスはないようですが、キャンセレーションブラックレディでは カードパスもありとしました。これが「愛のお手紙」の発生となりました。(笑) それからキャンセレーションハート→キャンセレーションブラックレディの 過程で当然出て来たのは、ブラックレディ-13点です。2枚あるので -26点という恐ろしいキャンセルが可能となりました。 キャンセレーションブラックレディは全く予想もしなかった面白さを 生み出しました。本来勝つために敵対するはずのプレーヤーが、 勝つために協力するという行動に出ることになった事です。 これはそれまでのトランプゲームにはなかった要素でした。 特に当時でき始めたゲームサークルのためには、素晴らしいアイテム になったと思います。ゲームは他人をやっつけるもの(笑)、サークルは 他人をやっつけないもの、よってゲームサークルは自己矛盾するもの、 の矛盾を解消するのですから。 できてみればキャンセレーションブラックレディはとても日本的な ゲームになっていました。だれが勝つか分からないような不条理感 は、嫌われるどころか喜ばれました。これは外国ではこうは いかないでしょう。もっとも外人でもアジア系の人ならウケるかも 知れませんが。(どうかな?) ゲームを楽しむためには、全員にブラックレディの素養が必要です。 日本的な文化は参加者に素養が求められるものが多いですね。 また集団意識として、「キャンセルはするもの」という共通理解 が必要になります。これも私には日本的という気がします。 そういう訳で、作ったというよりはできあがってしまったという感の 否めないゲームですが、多くの人に遊ばれ、長く遊び継がれていくことを 期待しています。 キャンセレーションブラックレディの誕生は、1982年だと思います。 |