二位問題

二位問題というのは、「多人数ゲームの二位は、勝ちか負けか引き分けか」という問題であり、

10年ほど前に私が提唱したものである。

これはなかなか深刻な問題で、原理的には解決不能の問題(アポリア)と思われる。

具体的には、例えば「麻雀のオーラスの2位が、順位の変わらないあがりをあがるか?」という問題だ。

もし、2位が負けならあがらないだろうし、2位が勝ちならあがるだろう。では、実際のところ、どうなのだろうか。

色々な人に聞くと色々な意見が聞ける。ということは裏を返せば共通理解がない、ということである。

そうなると、その内部では決まらないのは、ゲーデルを持ち出すこともないだろう。

例えば、2位まで勝ち抜きで上に上がれるトーナメントなら、今2位の人は文句なく、どんな安手でもあがるだろう。また、金銭を賭けていれば、各自の金銭感覚で、その態度は決まるだろう。つまりそのゲームを超えた、いわばメタゲームでの勝敗=評価で決定するしかないのである。

麻雀などでは、1位にならないのなら、負けも同然という人もいる。だが、麻雀のようなどちらかと言えば独立型のゲームならそれでもよいが、打倒度の高い多人数ゲーム、いわゆるマルチゲームでは、それでは終わらなくなる恐れもある。みんなでトップの足を引っ張るからであり、またリードに意味がなくなる。

確かにゲームの醍醐味は逆転にあるかも知れないし、ダントツ一位確定の消化試合は、みんなが退屈だ。しかしそれも行き過ぎると、二位狙いが戦略となってしまう。もちろん目立たない戦略も戦略とは言えるかも知れないが、スキルを尽くしてゲームに勝つという雰囲気ではない。みんなの動向に気を配り、最後は自分の実力と言うより、世論によって勝利を得るということになる。もちろん世論誘導も実力だという考え方もあろうが、何となく釈然としないものを感じるのは、私だけではないだろう。

一方オーラスで4位のプレーヤーに、順位の変わらない安あがりをされて憮然とする2位の気持ちも、分からないではない。ルールでそれを禁止している場合もあるが、それではもし4位が3位になのるなら、その2位は納得できるのだろうか。言い出すと切りのない複雑な問題が多く発生し、極端までいけば雀鬼会のように、あがっていいかどうか審判に尋ねるという事態にまで、行きかねない。そこまでになったら、もう麻雀ではないとも言えるのではないだろうか。

題名は忘れたが、片山まさゆきにの漫画にオニオンプロという、玉葱頭の「プロ雀士」が登場する。彼は競技麻雀での「ダンラス」の最下位の場合、何をすべきかという問いに対して、「静かにしているべきだ」と言う。場をかき乱すなと。一見ストイックで、見上げた態度のように見えるが、よく考えるとこれは消極的に1位に味方をしてはいまいか。

また作品の中で某プロは、やはりトップを狙うべきだと言う。しかし、自分の順位は変わらないのである。これって、今度は2位に味方をしていることにはならないだろうか。

麻雀を例にしたが、ほとんどの多人数ゲームの終盤で、最下位確定であるにも関わらず、上位の順位を決定できる立場になることがある。いわゆる「キャスティングボードを握る」というやつだが、この場合、どういう判断で、誰を優勝させるのだろうか。

一位を狙え打てという人は多いが、もう少し複雑にするとよく分からなくなる。例えば自分は三位で、二位か四位を狙い打てば(つまり一位を確定させれば)安泰だが、一位を狙い打とうとすると自分が四位になるリスクがある、などという場合だ。こんなとき、どうすれば「最善」なのだろうか。私には分からない。

困ったことに、このような事態はたまに起こるのではなく、多人数ゲームなら、日常的に起こるのである。そんなとき、何を基準に誰を狙うのだろうか。分からないばかりか、ルールで縛ることもできない。ルール上からは誰を狙っても反則とは言えないだろう。だがそれでいいのか。例えば、自分の嫌いなやつを狙ってもいいのか?

中にはそうしたときのために、みんなに親切にしておけ(笑)などと、冗談か本気か分からないことを言う人もいる。ゲームに勝つために人格を磨けと言うのだ。しかし、私の見るところ人格者はゲームをやらない。(笑)

かつて麻雀で有名な「見逃し」事件が起こった。日本一を決めるような大きな大会の、トップ決定の重要な場面で、見逃しが起こったのである。麻雀をよく知らない人にために一言するが、麻雀に於いては故意の見逃しは反則ではない。

この結果見逃されたA氏が優勝し、見逃したB氏は三位だか四位だかになった。ところがこのときの主催者は、見逃しを咎めて優勝を取り消したのである。問題なのは、A氏とB氏が同じ団体に属する親しい仲であったということだ。

だが、これはおかしい、と多くの人が思うに違いない。少なくとも見逃されたA氏にはなんの罪もない。少なくとも、その場で「見逃してくれ」と頼むようなことは、ありえない。だが、主催者側は麻雀の「品格」の為に決定を押し切った。もちろん非難は囂囂であったが、高く評価する意見もあった。

では、これをどう考えるべきなのだろうか

私には解決策はない。

この事件で誰も指摘しない問題は、主催者も参加者も観戦者も、誰もゲームの本質が分かっていなかったということである。それは、何か。もちろん「二位問題」である。

確かな金額は忘れたが、この大会には麻雀の大会にしては高額な賞金がかかっていた。問題はその配分である。主催者側のブレーンは、かつての意味の「プロ」である。つまり阿佐田哲哉の小説に出てくるような、戦後のどさくさからたたき上げた、ゴト師、サマ師(そのような者が実在したかどうかはここでは問題ではない)あがりのバイニン(あるいはそれを標榜する者達)である。彼らは言った。

「敗者には何もやるな!」

うーん、カッコイイ。だがこれが敗因なのだ。

額は適当だが、例えば総額百万円として、優勝八十五万円、2位から4位はみな五万円のような配分にした。私にやらせれば、1位四十万円、2位三十万円、3位二十万円、4位十万円のようにしただろう。もっと差を縮めてもいい。

前者の場合、二人組で考えれば、自分が3位から4位になることで仲間を2位から1位にあげられれば、総額で80万円の利得になる。どちらにしろ自分の損失はない。しかし後者の場合、ペアとしての利得は変化しないが、個人の収入は減るのである。

私は何も、B氏が、賞金欲しさに不正を働いたなどと主張したいのではない。ましてやA氏とB氏が前々からつるんでいた、などと言いたいわけでもない。この大会の主催者も、そのような疑いを表明しているわけではない。B氏の一瞬の迷いを鋭く見定め、自らの倫理で裁定をしたのであろう。従って、私は誰も責めることはできない。あえて言えば、全員がもっとゲームの本質というものを理解していてほしかったが、では私が主催したらうまくいったかと言われれば、自信があるわけではない。しかし、せめて賞金の配分を、私の主張するようなカッコ悪いものにしておけば、いくらかでも防げたのではないかと思うのである。

今後のあらゆる「大会」に、いくばくかでも参考になればと思い、あえて記した。

この事件は、一般に広く知られているというほどではないが、麻雀のためには悲劇であった。なぜなら麻雀という競技が、広く人々が観戦するプロスポーツになるとっかかりになるはずのイベントだったからである。麻雀は運悪く、その出発点から躓いた。麻雀は(イメージの中の)ダーティーな世界から脱しようとして、再びそのダーティーな世界に戻って行った。阿佐田哲哉自身が、これを残念な事件として記録している。しかし彼はその原因の一端が、自分自身にもあることに思い至らずに、逝った。幸せだったのか、不幸だったのか。

繰り返すが、私はB氏や、ましてA氏が、金銭的な利益の為に行動したとは、思っていない。しかしここで私が「円」で示したものを、一般的な「ゲームの理論」の「利得」に置き換えれば、これはあらゆる一般的な多人数ゲームの大会に通じる教訓を含んでいる。

「二位問題」は、本質的には解決不能問題である。だが、それを解決不能問題と理解することは、ゲームのために必要なのである。

 

(2006年04月24日mixi日記より)

 

 

【参考サイト】

最高位戦八百長疑惑事件(Wikipedia)