うんすんかるたへの旅

うんすんかるたの名前だけは、H君から1960年代から聞いていた。だがその実態やルールは、1982年の「かるたをかたるかい」まで待たねばならなかった。その後、おくので実物の廉価復刻版を手に入れた。

会ではルールだけでなく、九州の人吉に今も残っていることを聞いた。

1983年、大阪へ婦夫で旅行した。大阪のホテルで安田均氏に会って、ゲームをした。芦屋の滴翠美術館で現存するたった一枚の天正かるたに触り、山口館長や松田道弘氏に会った。南蛮美術館では、天正かるたの版木も見た。

そこでも人吉が話題になり、人吉は私のまだ見ぬ桃源郷となった。

1985年8月4日、私は妻と二人で人吉へ旅立った。新幹線で博多へ行った。私の祖先は博多や久留米にいたという。博多から八代に向かった。猛烈に暑かった。時間もかかった。

八代から肥薩線で人吉へ向かった。渓谷へ入ると心持ち涼しくなり、静けさに取り囲まれた。滴るような緑だった。列車は僅か二両で、ディーゼルのため架線もなく、ゆっくりゆっくり渓谷を登っていった。やがて開けると球磨川がゆったりと流れている。列車は球磨川を右に左に見ては、のんびりと桃源郷へ向かった。

人吉へ着いてみると、驚くほど開けていて暑かった。盆地とは言うものの、そして遠くの山に確かに囲まれてはいるものの、広い土地であった。文化はぐくまるる所という気がした。

さっそくT上さんを訪ねた。T上さんは江橋先生やY山さんに紹介を貰っていたが、うんすんかるたの廉価復刻版の作者であり、地元で百人一首とともに普及に努めていた。そのT上さんの紹介で、見所を尋ねて回った。

昔、寄り合って競技した場所だという所、何箇所かを回った。そのうち一つの公民館には、復刻の元になったかるたが額に掲げられていた。熱烈な愛好家だった「お婆さん」のいた酒屋へも、行ってみた。

「曾祖母が好きだったとは聞くが、今は何も分からない。」

と言われた。

翌、8月5日、いよいよT上さんの所に朋輩(ふうびゃあ=かつてのプレー仲間)の最後のお二人、T橋さんとK村さんがやってきてくれた。私、妻、T上さん、T橋さん、K村さん、そしてT上さんのご家族や教え子達、計八人で、八人メリを実践した。本勝負とまではいかないが、ずいぶん長時間お相手していただいた。残念ながら、今はT橋さんもK村さんも物故されているが、私は自分が直伝を受けたと、密かに考えている。

ずいぶん世話になった我々は、代わりにククを教えてきた。非常に驚いたことは、十年余りを隔てて再訪したとき、ぼろぼろになったククを、まだやっていたことだ! 再訪したときに、新しいククをお土産に持って行ったのは、実に幸いだった。

ククとウンスンは、その遠い遠い祖先が、ヨーロッパのどこかのユートピアで、交錯したかも知れない。それが数百年後、日本のアルカディアで交わろうとは、誰が予想しえただろうか。ゲームは、人の心に住み、その命ははかなくも永遠であると感じた。

我々婦夫は、人吉城に登った。もちろん城郭も何も残っていない城跡だが、私はそうした城には愛着がある。クラクラと倒れそうになるほど暑かったが、登りきったときは爽やかな風に迎えられて、感激だった。なぜなら、伝承の一つによれば、ここに岡山から相良の殿様に輿入れしたお姫様が、うんすんかるたを人吉に齎したというからである。

時を越え、場所を越えて文化は伝わるのである。

私はそのまたあと、今度は研究家のO塚氏と、三たびここを訪れた。そのときは球磨拳を調べにも来たのだが、その前に二度訪れた当時は、球磨拳の存在を見落としていたのである。

今秋、私は四たび、桃源郷を訪なうつもりである。T上さんは、元気だろうか。うんすんの継承は進んでいるのだろうか。球磨拳は健在だろうか。まだ見ぬ文化が、私を待ってはいまいか。

城址に吹く風は、今も爽やかだろうか。

 

2006年03月30日mixi日記より)