前書き

№0 (←クリックすると底本画像が表示されます)

雙陸手引抄

 

いにしへより双六とて、遊君(ゆうくん) 

のもてあそび物として長(ちやう)し 

けること、故(ゆへ)なきにあらず。其む 

かし阿育王(あいくわう)のつくりはじめ 

給(たま)ひしより、天竺(てんぢく)にては波羅(ばら) 

と名(な)づけ、六采(ろくさい)六字(じ)ともいひ 

けるとなん。また唐土(もろこし)にては 

双六と名づく。是(これ)すなはち六(むつ)を 

ならふる義(ぎ)なれはなるべし。

本朝(ほんちょう)にわたることは天鍳(てんけん)年中(ちう) 

のころかとよ。聖武天皇(しやむてんわう)曲水(きよくすい) 

の宴(えん)の御時(おおんとき)詩(し)をつくらざる 

ものには。五位(ごゐ)以上(じやう)に双六局(ばん)を 

給ひて。かけものには三千貫(さんぜんくわん)の 

あしを。くたし給はるといへは。こ 

れらのことによりて。今(いま)の代(よ)に 

ても。其(その)勝負(かちまけ)をいどむことには 

なれるにや。凡(およそ)局(はん)をつくるに 

あつさ四寸八分(はう)に。ひろさ八寸に

なす事は。四季(しき)を表(ひやう)しけると 

ぞ。また長さ一尺二寸にして竪(たて) 

十二の目(め)をもりけるは。十二月に 

あてけると也。是(これ)則(すなはち)天地人(てんちにん)の三 

才(さい)にかたどりて。横(よこ)三段(だん)にわかち 

陰陽(ゐんやう)の二議(にぎ)になすらへて。内(ない) 

外(げ)の二陣(にじん)をなしけるとなり 

黒白(くろしろ)の三十石は一月をつかさ 

とりけるにや。二(ふたつ)の骰(さい)は。日月に 

なすらへ。筒の竹を三寸三分

にきる事。須弥(しゆみ)の三十三天に 

表(ひやう)し是(これ)日月の行当(ぎやうとう)をかくす 

ゆへ也とぞ。かかるゆへあることなれは 

誰(たれ)か是(これ)を翫(もてあそば)ざらんや。ここに勝負(しやうぶ) 

は。石(いし)をなをすにてしれるといふ 

ことを図(つ)にあらはし婦人(ふじん)小子(せうし)の 

為(ため)にと書(かい)(おけ)る之是(これ)又(また)信ずへ 

きにはあらねと。且(かつ)又(また)初心(しよしん)の 

手引(てびき)にもならんとしるし畢(おはん)ぬ 

後(のちの) 人(ひと)誤(あやまり) あらば。これをけづり 

是(これ)を正(ただ)し給はく。世(よ)のたすけ 

ともならむと。しかいふ 

大坂天神橋南詰 

旧本屋七右衛門 

延宝七歳己未四月下旬

[コメント1]

上記は前書きだが、一段が、原本の1頁(半丁)にあたる。 

四段目の七行目のは、「おけ」ると振ってあるが、どのような漢字が崩されているか、私には分からなかった。

同じく末行の□□は、コピーが不鮮明で分からないのだが、ネットで見れば分かるのかも知れない。 

ついでに下から二行目の「畢ぬ」は (おはん)ぬ と振り仮名があったのを落としたので、訂正(追加)しておく。ただし畢の字は略字になっている。 

この後に口絵がついていて、「楊貴妃が女官と双六を打っているのを玄宗皇帝が観戦している」図と思われるが、

説明が何もないので断定はできない。もちろん、例えそのような絵だとしても想像図であろうことは論を俟たない。

なにせ当時からしても900年も前の話である。その口絵のすぐ次に、№1が続いている。 

これ以外には、序も跋もなく、刊記も(延宝期だから当然だが)ない。表紙は墨色一色で、題簽も恐らく剥落であろうが、ない。

従って外題は不明であるが、内題は冒頭に記したように『雙陸手引抄』 

である。私は「すごろくてびきしょう」と読んでいる。 以上

[コメント2]

画像に依れば、漢字は不鮮明だが振り仮名は「のちのひと」と読める。 

そこで四段目の末尾の二行は 

手引(てびき)にもならんとしるし畢(おはん)ぬ 

□□(のちのひと)誤(あやまり)あらば。これをけづり 

となる。誤読はあるであろうが、ほぼ全文を読めたことになると思う。

[コメント3]

「後(のちの) 人(ひと)誤(あやまり) あらば。 」ですね。意味もすっきり通ります。

[コメント4]

「おける」の字は、前妻にコピーを見せて尋ねたところ「置」の崩し字であろうとのことでした。