ゲームのニッツェ

ニッツェとはドイツ語らしいので、辞書を引けば正しい綴りなどは分かろうが、面

倒なのでニッツェで押し通す。ニッツ、ニッチ、ニッチェなどとも表記されるが簡単

に言って地位とか、ポストといったような意味であるらしい。もちろん地位という意

味なら地位という言葉を使えばいいのにわざわざここで「ニッツェ」を使うのには、

次のような理由がある。昔「サイエンス」という雑誌で読んだのだが、生物学で使う

「ニッツェ」とは、生物の生態学的地位のことである。例えば「旧大陸で狼が占めて

いるニッツェは、オーストラリアでは袋狼が占めている」などというように用いる。

このアナロジーをゲームの発達史に用いられないだろうか? もちろん生物の進化とゲ

ームの発達とは、無関係な出来事である。しかし時間軸上に展開される変化の様相を

つぶさに見るならば、表面的にもまた構造的にも多くの類似点を見いだすのは、そう

不自然ではないと思える。ゲームの総体を生態学的なフィールドと見たとき、その中

に於ける個々のゲームの盛衰は、まさしくニッツェの獲得と捉えられるのではなかろ

うか。

例えば、オークション・ブリッジというゲームがある。1915年頃から1930年頃まで盛

んであったゲームである。現在はプレイする人は滅多にいない。理由は簡単で、オー

クション・ブリッジはそのニッツェをコントラクト・ブリッジに奪われたのである。し

かしながら、オークション・ブリッジもまた、ビリッジ、ヴィントといったゲームのニ

ッツェを一気に奪って成立している。これらの様々なゲームは、ホイストのニッツェ

を襲ったものである。ホイストは恐らくオンブルのニッツェを引き受けたものと思わ

れるが、はっきりはしない。オンブルは明らかにレネガドのニッツェを蹂躙して成立

している。レネガドは、多分トリウンフォのニッツェに起こったゲームであると思わ

れる。

以上のように述べると、かつてからあったトランプゲームの系統樹をただ辿っただ

けではないかという批判が聞こえそうである。しかし私がニッツェなる概念を提出し

ようと図るには、もう少し進んだ意図がある。

生物にとってのニッツェとは、地球を覆うグローバルな生命圏内の棲み分けでもあ

る。また食物連鎖上の地位と捕らえることも可能である。ゲームにもゲーム圏はある

のか?またゲームにおける食物連鎖のアナロジーは一体何なのか。

生物においては、その存在を保証するのは、植物に対しての太陽光を含めての広い

意味での食物である。またそのフィールドは地球の表面全てである。しかしゲームは

他のゲームを食べはしない。またゲームのフィールドは文化そのものである。それで

意味が取りにくければ、人間の余暇と言っても良い。もっと言えば人間の思考と言っ

ても良いし、人間の脳がゲームのフィールドと言っても良い。人間の脳のゲームの事

を考える部分、これがゲーム圏なのだ。しかし人間の余暇には限界があるし、人間の

脳もまた有限である。ここにアナロジーの核があると私は考える。生物にとっての食

物もまた有限であり、そのための棲み分けであるからである。似た系統のゲームは、

より良い方に「食われる」のである。ブリッジに起こったことは、これだったのであ

る。

ここにおいてゲームのニッツェは、ゲームの系統樹の概念を越えることが出来るの

ではないかと、私は期待する。それは例えばヨーロッパ人の頭の中には、トリックテ

ーキングというフィールドがあるのだという仮説をたててみることで、その有効性が

評価出来る。例えば、同時代のラフアンドアナーズとエカルテは、両方ともトリック

テーキングには違いないが趣はかなり異なる。にもかかわらず、ラフアンドアナーズ

の遊ばれていたイギリスにエカルテは入って行きにくく、エカルテの遊ばれていたフ

ランスにラフアンドアナーズが入っていきにくかったことをどう考えれば良いのか?

-答え:イギリスでラフアンドアナーズが占めていたニッツェを、フランスではエカ

ルテが占めていたと考えれば良いのである。

私の見るところ、フランスのピケと、イギリスのベジーク、アメリカのピノクルは

同じニッツェと思われる。こうした空間上のニッツェの分配が「棲み分け」なら、ブ

リッジのような時間上のニッツェの分配がゲームの進化なのかもしれない。

例えば16Cの日本にはポルトガル船の種子島漂着によって、天正カルタというフィ

ールドが出来かけていた。あるとき、「よみ」と言われるゲームが大流行したが、「め

くり」というゲームが始まると、あっという間に駆逐されてしまった。「よみ」は今

の、ポカやひよこやいすりの祖先であり、「めくり」は八八の祖先である。やってみ

て分かるのは、ゲームの面白さの大きな違いである。

生物に淘汰圧というものが存在するなら、ゲームにはもっと苛酷な淘汰圧が存在す

る。面白くないゲームはたちどころに遊ばれなくなるからである。しかし面白さには

相対的な面があって、面白いゲームももっと面白いゲームの前には、面白くないもの

になってしまう。特に類似したゲームの場合ははなはだしい。これがニッツェの奪い

合いを現出させる。しかしもし生物の淘汰が生物の進化を保証するものならば、ゲー

ムの淘汰をゲームの進化を保証するものとして捉えることも出来る。同じニッツェで

競争するからこうしたことが起こるのである。

日本におけるチェスの普及は、誠に遅々とした歩みでしかない。チェスを愛好する

人は既に江戸時代からいたのにである。確かに5月に浜松町で行われる大会は大きい

が、会員が大きく増えるというようには、なかなかいかない。なぜか? 答えは簡単で

ある。本間先生言うところのバトルゲーム(将棋系ゲーム)のニッツェを、日本将棋が

占めていてチェスは入っていけないのである。なんだそんなことかと言うなかれ。こ

れは意外に凄いことなのである。

マックルックや、チアットなどというバトルゲームがある。それぞれ、タイやミャ

ンマーの将棋である。マックルックなら日本で駒も手に入る。南雲氏がルールを書い

ている。しかしタイではこのゲームはだんだん廃れていきつつある。なぜか? その

ニッツェをチェスに奪われつつあるからだ。とは言えマックルックはまだ結構庶民の

間で、例えば地面の上に線を引いて楽しまれているそうだ。「上流」階級の間では専ら

チェスが指され、マックルックは全く遊ばれないと聞いた。(以上全て伝聞なので、事

実と異なる可能性はある)。 鹿鳴館の時代から、「上流」ほど顔が外を向くのは、近代

の常であるが。

だがマックルックはまだ良い。チアットに至っては、既に滅亡との噂もある。事実

他の東南アジアの将棋は多くは滅亡してしまった。

もしブリッジがカードゲームにおける西欧近代ならば、チェスはバトルゲームにお

ける西欧近代である。アジアの多くの国は、既に「西欧化」されてしまった。インド

映画「チェスをする人」でも、貴族は果てしなくチェスを続ける。チャトランガを生

み出した国で、である。バトルゲームのニッツェそのものを創り出した場所で、植民

地主義者とともに里帰りしたチェスが、そのニッツェを襲っているのである。(映画

中一回だけチャトランガの話題が出てくる。貴族達は「ホウ」と一言言っただけで無関

心であった。)

しかしシャンチーの国、中国と、将棋の国日本では、ニッツェが奪われることはあ

るまい。それはシャンチーや将棋がチェスより面白いからである。けれども油断はな

らない。シャンチーより更に面白いと私の考えるチャンギは、『幻の大国手』の著者

金重明氏に聞いたところでは、韓国での状況は誠にお寒い限りであるそうだ。韓国で

は囲碁が盛んで、チャンギは年寄りしか指さないそうだ。チャンギのニッツェは奪わ

れるのでなく、自壊していくのか? この点、カシノゲームのニッツェが花札からスコ

ポーネへと交替するようなこともなく、だんだん廃れてきたことを連想して不安であ

る。だから近ごろの一部のゲーム会での八八の隆盛は(個人的には八八はあまり好きで

はないが)、誠に頼もしいものを感ずる。さらに、石見氏が「ムシ」の話題を提供され

ているが、滅びそうな花札のゲームがこれらをきっかけに復権していったらと願わず

にはいられない。ムシは俗に大阪虫と言われるように、関西で盛んなので、関西の人

のレスを期待する。また田中氏が話題を提供されている「旗源平」は石川県の郷土遊

びなので、ぜひそちら方面の方のコメントを期待する。

一方それだけ面白いはずの日本将棋が、イギリス将棋協会のホッジス氏や、フェア

バン氏の努力にも拘わらず、日本以外でなかなか大きく広まらない。これはチェスの

占めるニッツェに将棋が割り込めないと考えてよいのかも知れない。この点も、連珠

が北欧各国・旧ソ連圏で隆盛なのは、誠に頼もしいものを感ずる。日本で連珠を打つ

のが老人ばかりなのは、韓国でチャンギを指すのが老人ばかりなのと符合して、苦笑

を誘われてしまう。

ただチェスが多くの国でその国のバトルゲームのニッツェを奪えてきたのは、そこ

そこの面白さ(明らかにチアットよりチェスの方が面白い)ばかりでなく、植民地支配

を背景にした、政治的・経済的な理由との両者があってこそだということは指摘して

おきたい。

私は将棋も弱く、チェスも、シャンチーもチャンギも弱い。しかしそれでもこの中

でチェスが一番つまらないゲームであることは断定できる。チェスは「敵玉を詰める」

というバトルゲームの心を失っている。チェスは相手のキングを詰めるゲームではな

く、駒得を争うゲームなのである。あるいは、ポーンの昇格を争うゲームなのである。

キングを詰めることは、ただその争いを有利にするための手段に堕してしまっている。

チェスのキングはとても強くて(ルークほどではないが、ビショップやナイトより強い

)なかなか詰まない。シャンチーの将帥はとても弱くて死にやすい。チャンギの漢楚は

シャンチーの王より強いが、攻め駒も強いので大変だ。日本将棋の王も弱い(将棋の全

ての駒の中で、はることの出来ないのは王玉だけである)。だから、いつ頓死するかの

きわどい攻め合いとなる。しかしチェスはもったらもったらと1ピースずつのアップ

を願う。それが面白いという人の嗜好を私は否定しない。しかしゲームの目的の鋭さ

がなまされていることは確かだと思う。(きっと反論も多いだろうなあ)

私が言いたいのは、その様に劣るゲームに優れたゲームが駆逐される(ニッツェを奪

われる)可能性もある、ということである。それを呼び込むのは、優れたゲームを持つ

側の認識不足と植民地根性、永井荷風(だったっけ?)根性であると思う。

野蛮なフランス人に攻められつつ、誇り高くファノロナを指しつつ滅びていったマ

ダガスカルの部族の高い文化に学びたいものである。 (一応 完)

(なかよし村とゲームの木HPより転載:FGAME-1993/10/06)