雙六手引書1
№ 1 (抄№ 1)
○____●x_____○
○____●x_____○
○____●x_____○
○____●x______
○____●x______
1 2 3 4 5 6 6 5 4 3 2 1
●____○x_____●
●____○x_____●
●____○x_____●
●____○x____○●
●____○x____○●
内 外
しょてに
ぢう二を
ひくがよし
四六 一六 でつ
ちにとくあ
るなり
[解説]
書№1 しよてにぢう二をひくがよし 四六 一六 でつちにとくあるなり
抄№1 しよてに重(ちう)二はひくがよし 四六 一六 てつちにとくあり
両者は酷似している。場面も初手二ゾロと同一である…と、言いたいとこだが重要な点が違う。
そう、初形(石飾り/オープニングポジション)が違ってるのである。
ここが、しょっぱなから物議を醸す問題の箇所なのである。
№ 1 参考図① 大和配置
○____●x_____○
○____●x_____○
○____●x_____○
○____●x_____○
○____●x_____○
1 2 3 4 5 6 6 5 4 3 2 1
●____○x_____●
●____○x_____●
●____○x_____●
●____○x_____●
●____○x_____●
内 外
№ 1 参考図② 本双六配置
○____●x_●___○
○____●x_●___○
_____●x_●___○
_____●x_____○
_____●x_____○
1 2 3 4 5 6 6 5 4 3 2 1
_____○x_____●
_____○x_____●
_____○x_○___●
●____○x_○___●
●____○x_○___●
内 外
いくつかの資料に、本双六に対して端双六とか大和と呼ばれるルールがあると書かれている。
一般に「双六」と言えば本双六を指し、「おりは」「柳」「大和」などと区別するために敢て「本」双六と呼ぶと言うのが、普通の理解であった。
この点は、「将棋」と言えば本将棋を指し、「はさみ将棋」「回り将棋」「跳び将棋」などと区別するために敢て「本」将棋と呼ぶと言うのと同様である。
あまり用いられないが、囲碁も五目並べと区別するために「本碁」という事もある。
私は本双六も同断で、正統的な双六を他のローカルルール・フェアリールールと区別するために「本」双六と呼ぶこともあるという理解をしていた。
ではこの「書」の№1図は何であろうか? 謎である。
中村忠行「双六考」1955年には、本双六と大和の両方が紹介され、本双六はベアリングオフがない(入れば勝ち)が、
大和にはベアリングオフがあるとしている。そこでは宋代の『譜双』、明代の『日本考』が引かれている。『日本考』に書かれているのは大和配置である。
しかし、「抄」を見る限り、江戸時代前半の盤双六は、初期配置は大和ではなく、本双六である。
そして終局は本双六(あげない)ではなく大和(あげる)である。不思議な混交が見られる。
一つの折衷的な解釈は、本双六と大和が並行て遊ばれていたというものである。時間的(時代)、あるいは空間的(地方)な違い、
バリエーションであるかも知れない。そのような主張もあるようだ。
だが、私はこれは賛成できない。私が問いたいのは、そのような主張をする人は実際に「大和」を遊んでみたのか、ということである。
私はいろいろな人に頼んで、20ゲームほどやってみた。結論は簡単で、大和配置でのスタートで、しかも15個あげるまでやるとなると、
恐ろしく時間がかかるということである。正直なところ、かったるくてやっていられない。20ゲームでは統計的データとしては少なすぎるというそしりは、
甘んじて受けよう。だが、私にはこのようなゲームを実際に遊んでいたとはほとんど考えられない。
まあ、中将棋や、もしかすると大将棋すら指していたかも知れない「いにしえの殿上人」が、絶対遊んでいなかったとまでは言えないかもしれない。
しかし、バックマンが5個もあるようなゲームを、しかもぞろ目2ムーヴという、ただでさえ遅い展開の上に、入り勝ちではまだ不十分だと言われれば、
忙しい庶民なら放り出したくなるであろう。
では、「書№1」はどう解釈すればいいのだろうか。結論からすると私には分からない。断定的なことは言えないので、以下は全て推論である。
「抄№1」は明らかに本双六配置を示唆しているし、片玉集に収録されている「双六口授」には、はっきり本双六配置が「平手」との詞書きとともに残されている。
恐らく飛鳥時代から一貫して日本の盤双六は本双六配置であったのであろう。上記のように、このことは17世紀以降は文献的に立証できる。
では「譜双」「日本考」「書」の記述はどうしたことだろうか。また、1920年の「仙湖遺稿集」には、本双六配置を「石立」として示し、
大和の初期配置を「古法」として図示している。『和漢文藻』にもこれに似たやや混乱した記述がみられる。
『譜双』は、洪遵が父の赴任先の北方の地、南方の地を巡り、文物の違いを痛感して1151年に著した本である。しかし日本列島に来たことは流石にないだろう。
日本双六の記述は間違いなく伝聞である。『日本考』はその『譜双』を参考にした気配がある。西澤仙湖も、自分で大和をプレーしたわけではなく、
文献的考証で大和配置を、しかも20世紀に示したものである。
プレーしてみた感覚からは、大和は遊べない。少なくともこれで賭け事をする気にはなりそうもない。だが時間はかかるものの絶対できないというものでもない。
そこでローカルルールとして古く大和が行われていたというのは、考えられないことではない。
譜双によれば、例は少ないがこの配置が中国の別の地でも行われていたとが示されている。そこで最も穏当な解釈は、
本双六配置がメインで、一部で、あるいは一時期に大和配置も行われていたのではないか、というものである。
それがどうして「抄」には本双六配置が、「書」には大和配置が載るようになったかについては、冒頭に述べたように謎と言うほかはない。