ククの歴史
本間晴樹氏がスウェーデン語の資料を読んで、ククの歴史を
教えてくれました。大筋で私たちの知識に違いはないのですが、
詳しい年代などが分かって感激しました。また驚くべき事実もありました。
ククが生まれたのはどこでしょうか?
史料によれば、ククの発祥はイタリアではありません。
驚きましたか? 私は驚きました。
ククが生まれたのは、史料によれば、16世紀フランスだそうです。
驚きましたか? 私は驚きました!
私は自らの先見を誇りたい気持ちになりました。
ラブレーはやはりククで遊んだのでしょうか。
史料はガルガンチュア物語を参考文献に挙げていませんが、
たぶんあれが最初の言及の一つでしょう。
ククの意味はやはり郭公で、当時のカードは38枚だったそうです。
ランクを紹介します。上から、
クク、衛兵、馬、猫、宿屋、10、9、8、7、6、5、4、3、
2、1、0、仮面、アーチ、で、道化はランク外だそうです。
全て2枚ずつです。
道化師はハーレキンと呼ばれ、仮面劇に登場するものだそうです。
絵柄はタロットの影響を指摘する意見もありますが、これには
反対意見もあって、結局明確ではありません。
仮面劇に起源があるという説もあります。
猫は売春婦の隠語であるという指摘もありますし、驚いたことに
ククはコキュであるという意見もあるのです。もちろんここで言う
コキュは、例の芳しくない意味です。ただしこれらは全て
憶測であって強い根拠を持たず、結局は霧の彼方のようです。
ククは17世紀末にフランスからイタリアに伝わったのだそうです。
始めは普及しませんでしたが、やがて各地へと広がっていった
のだそうです。
16世紀フランスに生まれたククは、17世紀末にイタリヤに伝わり、
18世紀初頭に広まったようです。
前にも述べたようにククは始めは38枚でした。しかしこのころから
メーカーは商標をカードにして混ぜることをし、さらにその商標の
カードが使用されるようになったようです。商標にはライオン、盾、
太陽などが用いられたようです。現在のライオンには、これらが全て
描かれていますが、もとは別々だったようです。
ソルレオーネというイタリヤのメーカーが、如何にも古風なデザインの
カードを出していますが、ソルは太陽、レオーネはライオンですから
恐らく18世紀から続く伝統的なメーカーではないでしょうか。
ライオンは当初は一枚だけ入れたようです。商標であってゲームには
使わなかったのですから、当然でしょう。
ライオンは、太陽や盾以外にも意匠があったようです。
例えば南イタリヤのアブロッツォで用いられた地方札では、
カカッチオです。カカッチオというのは、なんと下痢です。
資料によれば、18世紀から19世紀にかけて、このククカードで
遊ばれたゲームはカンビオだけでなく、
ア・トリオンフォ、イン・パルティータ、スピッキーノなどがあると
書かれていますが、ゲームの内容は分かりません。ア・トリオンフォ
というのは、あのトリオンフォなのでしょうか?
トリオンフォならライオンは2枚要ります。
さて、18世紀前半に、いよいよククはアルプスを越えます。
同時にカードが変化していきます。
18世紀にアルプスを越えたククは、まずスイスに広まり、
それからオーストリアとバイエルン(南ドイツ)に広まります。
そこではこのゲームは、カンビオ、あるいは
ヘクセンシュピール(魔女のゲーム)とかヘクセンタンツェ(魔女の踊り)
と呼ばれました。なぜなら、仮面のカードが魔女に変わったからです。
また「棚からぶら下がったソーセージ」に変化した意匠もあります。
どうしてそんなとんでもないデザインになったかは、資料は何も語らず
私にも想像できません。
この当時のゲームに「ヘルファーレン」というものがあります。
ヘルファーレンとは地獄落ち、という意味です。
プレーヤーは各自駒を持ちテーブルに置きます。そしてククをやります。
自分が負けたり失格したりするたびに駒をテーブルの端へ向かって進め、
テーブルから落ちたら地獄落ちで負けというわけです。
競馬香を連想するスコアリングの興味深い方法ですね。
こんどこれでククをやってみよう。(笑)
何回負けたら「ヘルファーレン」なのかはよく分かりませんが、
もちろんみな同じ回数で落ちるのだと思います。
このころのドイツでは、ゲームの名称はヘクセンシュピールや
ヘクセンタンツェのほかに、フォーゲルカルテンとも呼ばれていました。
「鳥札」ということだと思います。カードに鳥が書かれていたからでしょう。
私の見た復元カードでは、ローマ数字の代わりに飛んでいる鳥が
数値を表していました。例えばとりが5羽飛んでいればV、
6羽飛んでいればVIを表すというふうです。
さて、いよいよククは18世紀中葉、スウェーデンに登場します。
デンマークについては、この資料はなぜか全く言及していません。
デンマークにも伝わったことは、デンマーク製ククカードが残されている
ことからも確実なのにです。
次は1741年のスウェーデンへ進みます。
スウェーデンのエーンベック・アンデルスという人の遺した文書の中に
「カンピオゲームの原版が手に入った」という記述が見られます。
この文書は1741年に書かれていますので、18世紀中葉にスウェーデンに
ククが伝わっていたことは間違いのないことだとされています。
当時、このゲームの名は、カンピオ、あるいはカンフィオと
呼ばれていたようです。キッレと呼ばれるのは、それから90年近くも
後のことです。
1743年になると、スウェーデンの高名な詩人ベルマンの詩の中に
カンピオが出て来ます。それによると、当時カンピオが、
酒場から上流階級に至るまで遊ばれていた様子が窺えるそうです。
さてこのころ、意匠上の変化が起こります。
0が花輪へ、アーチが花瓶に変化したのです。
また仮面は顔に変化しました。ただ前述したように、仮面は魔女に
変化したわけで、顔は仮面から直接来たものではなく、魔女からまた
変化したものであろうと書かれています。なぜならこの「顔」は
魔女の顔だからです。(私には道化の顔にしか見えませんが(笑))
この顔のカードは、現在のスウェーデンでは「ブラーレン」と
呼ばれていますが、このブラーレンはスウェーデン語でも、
ノルウェー語でも、デンマーク語でも、ドイツ語でもありません。
これはヴェンド語なのです。ヴェンド語とは、本間氏によれば
ポメラニアの言葉であるそうです。ではポメラニアとはどこかと
言うと、ずっと東、現在のポーランドの海に面した辺りだそうです。
現在東欧にはカードは残っていないようですが、東欧にも伝わった
証拠になりそうです。さらに面白いことには、ヴェンド語では
道化のことをブラーゾンと言うそうです。何か語呂合わせのような
感じで、顔=ブラーレンができたのではないかと、私は感じました。
私の尊敬するJ.S.バッハが亡くなったのは、1750年です。
そのころのドイツには明らかにククはありました。
果たしてバッハはククで遊んだでしょうか?
バッハが、隣のC.P.E.バッハから花輪を回されて渋い顔をしているところなどを
想像すると、顔が緩んでしまいます。
さて、その後も図柄の変化は続きます。
ククは郭公のままですが、衛兵は軽騎兵に変わりました。
馬は騎手で、猫は猪に変化します。同時にランクが入れ替わり、
郭公、軽騎兵、猪、騎手、宿屋、12、11、10、9、・・・・、1、花輪、
花鉢、顔、道化
となったようです。この猪はスウェーデンでは「フス」と呼ばれますが
これはドイツ語の「フィ・ザイ」から来ていると言われます。
ではフィ・ザイとはどんな意味かと言うと、単なる掛け声で、意味はないようです。
さて、1833年になると、それまでカンピオと言っていたこのカードを、
キッレとも呼ぶことがあったようです。1833年はキッレの初出はの
年だからです。1834年に書かれた小説でもククをキッレと呼んでいます。
1850年ころからはむしろ、キッレと呼ばれることの方が多くなりました。
それでも1920年台まではまだカンピオとも呼ばれていたようてす。
ではキッレとはどういう意味でしょうか。腕白な少年をこう呼んだ
ようですが、それが道化を指していることは間違いないようです。
スウェーデンの文献での「キッレ」という単語の初出は1833年です。
1834年には小説にも出て来ているそうです。
1850年ころからはキッレという名称が主流になったのですが、1920年代までは
カンピオという言い方もあったようです。
キッレは、現在の意味は腕白小僧ですが、道化を指す単語だったようで、
それがやがてカードやゲームの名称となったもののようです。
1970年代の後半、私はニチユーで「クク」という見たことのない
カードを手に入れた。説明はイタリア語でとりあえず不明
これは、マッセンギーニ版の40枚のカードで、初めて見る不思議な
意匠に私は魅了された。イタリア語の翻訳を本間氏に頼んだが、
そこに書かれているルールはトリオンフォのものであった。
もちろん、そのように遊ぶのかと思った。
1980年11月、「CARDS AND TAROTS」誌に、
「クク遊び」という記事が載った。これは江橋崇氏がデンマークの
手書き復刻版につけられたルールを翻訳したものである。
私は数年後「かるたをかたる会」に参加し、初めてこの資料を見た。
このカードアンドタロット誌はかるたをかたる会の機関紙である。
これを読んでかつて850円で買ったククカードを取り出し、
わが家でテストプレーをした。初めてのプレーヤーは、
私、Bさん、Mさん、Oさん、Hさんであった。
かるたをかたる会でのテストプレーを除けば、最初のプレー
ということになる。非常に面白かった。一遍で魅了された。
1983年10月22日(土)なかよし村とゲームの木の第82回例会において、
初めてククはプレーされた。この時の参加者は10名、
好評は確立し、これ以降例会で繰り返しプレーされることとなる。
問題はこの時にプレーされたルールである。
それには1980年11月の「CARDS AND TAROTS」誌の
ルールを振り返らねばなるまい。
著作権があるので、非常に興味深いのだが全文の引用はできない。
特に焦点となる4.特別な札 のうちカッコーを見てみよう。
カッコー・・・持っている人は、いつでも交換をストップしてオープンを
請求、ゲームを結論に持っていってよい。山から持ってきた時は
元の札に戻る。
そして5.ゲームの終わりと計算 を見てみよう。
一回りしたら、一同、同時に表を示す。点が最低のカード、失格のカード、
道化を持っている者は抜けなければならない。抜ける人は、保証金をつみなおして
再度、参加できる。
※再加入の料金・1回目、最初と同じ、2回目 1/2、3回目 最初と
同じ。再加入の権利は3回まで。
引用は上記1段下げた部分である。で、問題は2回目の1/2である。
これは一体何だろうか?「最初と同じ」の最初も分からない。
当時「かるたをかたる会」は2カ月に1度ぐらい不定期に開かれていた。
この訳を作ったのが江橋さんだというのも当時は知らなかった。
新参の私がルールのことで問い合わせるというのも気後れした。
そこで勝手に(笑)解釈することにした。最初と言うのだから、初めに
アンティを出すのであろう。ギャンブルゲームであるから、
そこだけは間違いあるまい。すると1回目の失格者はアンティと同額
支払って再参加ということでよかろう。では次の1/2は? これは
アンティの1/2、つまり半分でいいという事であろう。そして
再びアンティと同額。うんこれで良さそうだ。半分が出てくるのだから、
アンティは2チップでよいだろう。その後、2,1,2と出せば、
趣旨に合う。
こうしてかつての2,1,2チップが生まれたのである。
10年後のT氏の訳によれば、
アンティ1チップ、1回目1チップ、2回目「ポットの」1/2
3回目ポットと同額、ということであった。これが正しいのかも知れない。
私の積年の疑問(1/2ってなんだぁ?)も晴れた思いがした。
しかしゲームとしては、ポットの1/2、ポットと同額はあまりにも高く、
特に人数が多いときは払う気がしない。また個人に関し3回まで再参加
が可能という別の解釈も、あまりにゲームが長くなりすぎる。
そこで私は私の誤解を押し通すことにした。(笑)
フランスで発祥し、イタリアで完成し、スイス、ドイツ、ポーランド、
デンマーク、スウェーデン、ノルウェーと伝わり、日本に伝播した
カンビオ=ククゲームは、今日本化したのだ、と私は解釈した。
しかし2,2,1,2の不思議さは最後まで付きまとった。
「子供の時間」「大人の時間」という言葉は、説明のために私が
考案し、便利なせいか受け入れられた。
一方当初からO氏は、1,1,2,3でいいのでは、と提案していた。
2+2+1+2=7、1+1+2+3=7 という理由から、
私はこれには賛成であった。しかし「ククあそび」の文言には
忠実でありたいと思った。
現在復刻版をFGAMEから出すに当たり、1,1,2,3を正式と
定めた。これはもう純粋に日本だけのものであろう。
しかしクロケーからジャパニーズクロケー=ゲートボールが
できたように、私はこれはジャパニーズククであると考えている。
私が15年遊んだ結果、これが一番面白いと思っている。
もちろんゲームは遊び手のものだから、プレーヤーがどのような解釈を
加えてくれても、それはそれでよいと思っている。
(97/04/05~97/08/24 FGAMEログより)
ボードゲーム数寄語り。第75回「草場純さんに聞く日本のゲームシーン・その4」