将棋の駒はなぜ40枚か
1)将棋の駒はなぜ40枚か
増川宏一著『将棋の駒はなぜ40枚か』集英社刊 ISBN4-08-720019-1は、
木村義徳著『持ち駒使用の謎』日本将棋連盟刊 ISBN4-8197-0067-7との
論争も面白いが、私が題名に引かれての本を手にしたのには、別の
理由からだった。それは文字通り「将棋の駒はなぜ40枚なのだろう?」
という疑問である。言い換えれば、(現在の)将棋の駒はなぜ30枚でも
50枚でもない、40枚なのだろう?という素朴な疑問である。
「将棋の駒はなぜ40枚か」という疑問に対し、『将棋の駒はなぜ40枚か』
という本は、歴史的な解答は不十分ながら与えてくれている。しかし私が
欲しかったのは、将棋の駒が40枚である合理的理由である。
本からは解答が与えられないので、ここでそれを考えてみよう。
結論から言うなら、それは盤の面積の半分だからではないだろうか?
現在世界で行われている主な将棋を見てみよう。
まず日本将棋=現代小将棋であるが、これは盤の面積81升、駒数40枚、
初期配置の駒数を盤の面積で割った値を初期占有率と呼ぶなら、
それは、49%である。
次にチェスを考えてみよう。これは盤の面積64升、駒数32枚、
初期占有率は、50%ちょうどである。
マックルックも同じく50%、シットインも50%だ。
象棋とチャンギは、盤の面積90升、駒数32枚で、36%とかなり小さい。
また古将棋や古チェスの類いは初期占有率が下がるものが多いが、
それでも3分の1、つまり 33%を下回るものはほとんどない。
古将棋の類いのうちでも実際によく指されたとされる中将棋を見てみよう。
中将棋は盤の面積は 144升、駒数92枚、初期占有率は 64%とかなり高い。
あとモンゴルのシャタルは 50%、古将棋の禽将棋は 65%である。
以上のことから、将棋類の駒数は、盤の面積の3分の1から3分の2の
間に分布し、ちょうど50%にピークがあると見てよいのではないだろうか。
では次に、なぜそうなるのかを考えてみよう。
ミニ将棋を指してみると、なぜ(日本)将棋の駒が40枚なのかは、すぐ
納得できる。ミニ将棋の中には初期占有率が高いものもあるが、
それは自由に動ける空間が少なくてとても指しにくい。
例えば禽象棋は、駒の動きの不自由さも加わってとてもじれったい。
逆に初期占有率が低い将棋類はどうだろうか。今度は足が遅くて
まだるっこしい。結局、長年の経験から、将棋類の初期占有率は、
50%ぐらいがちょうどいいという経験法則が導かれたのであろう。
初期占有率が高い中将棋には、獅子という駒がある。これは居食いが
できるので、互いに敵の小駒をどんどん食べていって、十分透き間が
空いたころ、奔王(動きはクイン同じ)が出てきて活躍する。
占有率が50%だと若干戦端が開かれるがまだるっこしい恨みがある。
だからチェスのポーンは最初に限り2升進めるのだろう。これが
ポーンの特別な機能であることを否定するルールがアンパッサンだろう。
マックルックは小駒が多いのでますますまだるっこしい。
そのせいかマックルックのポーン(ビア)は、最初からひとつ前にある。
もっと駒の弱いシットインは、初めから囲いを作って始める。
これもまだるっこしさの解消のためであろう。
では占有率の低い象棋やチャンギはどうして50%を大きく割り込んで
いるのだろうか。それは大駒(走れる駒)が比較的多いのと、王が
弱いせいだろう。象棋の将帥は走れるともいえる。(王不見王)
かつ、王が行動できる範囲は極端に少ない。占有率は駒の不自由度の
指標だが、象棋やチャンギは、みかけの占有率よりずっと不自由である。
もう一度結論を言うなら、「将棋の駒がなぜ40枚か」に対する回答は
「盤の面積のほぼ半分だから」である。
最後にその好例として5五将棋を挙げておう。
5五将棋は、盤の大きさが30升以下のミニ将棋の中では、最も成功した
ものである。盤の大きさは25升、駒数は12、初期占有率48%である。
2)バックギャモンの駒はなぜ30枚か
バックギャモンの駒は各自15枚ずつ、敵味方合計で30枚である。
これはなぜだろう。30枚であることに何か合理的な理由はあるのだろうか?
これも結論を先に言おう。30枚が一番面白いからである。
ではなぜ30枚が一番面白いのだろうか?
それはダイスの目が6面だからである。
ではなぜダイスが6面だと30枚が面白いのだろうか?
またダイスが8面だったら何枚がいいのだろう。
1~5までしか出ないダイスを2個使ったら駒は何枚が面白いのだろうか?
意外なことにこれらの質問には答えることが可能である。
それは「5Dの法則」と私が名付けた法則が成り立つからである。
では5Dの法則とは何か。それは次のように述べることができる。
「バックギャモンの駒の数は、使用されるダイスの最大の目の
5倍が、最もゲームを面白くする」
このような法則は果たして本当に成り立つのであろうか?
また、成り立つとしたら、それはなぜであろうか。
フェアリーギャモンの研究の過程で、我々は様々な大きさ、
様々な駒数でミニギャモン、マクロギャモンをやってみた。
その結果、面白かった駒の数を書いてみよう。
ダイスの目は2~8までを試した。
ダイスはもちろん2個を使用し、盤の大きさはダイスの最大目の4倍
とした。フェアリーギャモンの中には例えば、双八のようにダイスの
目は変えたが、盤の大きさ、駒の数は変えないルールもいくらでもある。
ダイス・盤・駒をそれぞれ変化させれば、順列組み合わせでいくらでも
違うものが作れる。しかしそれではかえってゲームの性質が見失われる
ので、盤は4倍と固定し、駒の数による変化を試した。
以下にDはダイスの最大目、Bは盤の大きさ、Mは駒の数であるが
ここでは一方の駒の数だけを書いた。この書き方なら、一般の
バックギャモンは駒15個となる。5Dの法則もこでは2.5Dの法則
と言うべきかも知れない。
D B M
2 8 5
3 12 8 ←ハーフギャモン
4 16 10
5 25 13
6 24 15 ←普通のギャモン
7 28 18
8 32 20 ←ラージギャモン
ここで問題を出してみよう。
バックギャモンは普通白15枚、黒15枚の駒で戦う。
これを白16枚、黒14枚としたらどっちが有利だろうか?
駒の数はミッドポイントで調整しよう。つまり白のミッドポイントは
6枚、黒のミッドポイントは4枚で始める訳だ。
これはフェアリーギャモンの一つのM-Nギャモンの一種であり、
この場合は「16-14ギャモン」と呼んでいる。
これはやってみるとすぐ分かるし、やってみなくてもある程度以上の
実力のある人には察しはつくだろう。初心者には、あげるべき駒の少ない
黒の方が有利と思われるかも知れない。しかし実際には白が
ずっと有利である。それはプライムが作りやすく維持しやすいからである。
ハイパーギャモンというフェアリーギャモンがある。白も黒も
たった3個の駒で戦うギャモンだ。プライムが作れないのはもちろんのこと、
選択肢の少ないこのゲームは、あまり面白いものではない。
これで、どうして面白いバックギャモンは、ダイスの最大の目の5倍の
駒でやるのかが分かったと思う。
では、まとめてみよう。
バックギャモンの駒がなぜ30枚かと言えば、それは30が6の5倍だからである。
バックギャモンの駒がなぜ30枚かと言えば、それは敵味方で15枚ずつ
駒を持っているからである。それで15である必然性が問題になる訳だが、
それはこのように説明できる。
15は6の2.5倍である、と。
これをもう少し詳しく説明するなら、通常のバックギャモンのダイスは
6面ダイスを用いるから最大の目は6である。ということは、フルプライムは
ポイントが6個連続している必要がある。ポイントというのは、
ルール上2個駒がある必要がある。バックギャモンの最も基本的なルールに
1個(ブロット)だとヒットされるが、2個以上だとヒットされない、というものが
ある。従ってフルプライムを作る駒の最少限度は12個である。12個未満では
フルプライムは作りようがない。では12個あれぱ十分だろうか。決して
そんなことはない。15-12ギャモンをやってみればすぐ分かるが、12個では
フルプライムは事実上全く作れない。予備の駒がないからである。
予備の駒がなければ自由度が少ない。余裕がないとも、フレキシビリティが
小さいとも言い換えられる。たとえ奇跡のようにプライムが完成したとしても
一瞬の後には崩れるしかない。
ではどれくらい余裕があればいいのであろうか。私はダイスの最大の目の
半分がよいと思う。こうして2.5倍という数字が出るのである。
2.5倍がよくて2倍ではいけない理由は理解していただけただろうか。
では3倍ではなぜいけないのだろうか。
3倍では今度は余裕があり過ぎて、逆転や予想外の展開がなくなってしまう。
その分、緻密になるとも言えるが、バックギャモンの魅力は、緻密な
戦略のぶつかり合いという面もあるが、一振りのダイスの目に
翻弄される運命の魅力という面も、確かにある。だからダイスの目の
2倍半ぐらいがちょうどいいのである。
南雲夏彦氏の考案になる「ハーフギャモン」は、3面ダイスを用い、
全部で12個のポイントのあるボード上で戦う。駒の数は、
3×2.5=7.5だが、切り上げて8個ずつにしてある。
これが遊べるのである。なかなか面白い。バックギャモンの
パペットアニメを早回しで見ているようだ。
次に私の考案になるマイクロギャモンを見てみよう。
●▽○●
● ○
○ ●
○△●○
上が初期配置である。右側が上がりで、右側2行が互いのインナーである。
バックマンは1個しかない。
ダイスは1円玉を2枚カップに入れて振り出す。1円玉の1と書いてある
方が1で、裏が2である。出る目は、22,21,12,11の
3種類4通りしかない。何とこれでもゲームになるのだ!
駒の数は理論通り、2×5=10 10枚である。2は2面ダイスだから
2であり、一方からだけ見れば、2×2.5=5枚ということになる。
以上で、バックギャモンの駒がなぜ30枚であるかの説明を終わる。
皆さんには、納得していただけたであろうか。
3)連珠の盤はなぜ15道か
連珠盤は碁盤の19道と違って15道である。あまり多くないが15道の連珠盤は
市販されている。ではなぜ15道なのだろうか。
連珠は15道と書いたが、いまだに少数ながら19道派もいる。
また連珠は本来無限に広い盤でやるべきだと考える人も、極めて少数だが
存在する。ではなぜ黒岩涙香は15道にしたのだろうか。
歴史的経緯は私には正確には分からないが、例によって15道である
合理的必然性を追求してみたい。
連珠というゲームは非常に鋭いゲームである。
鋭いということの意味は、1手の誤りが命取りになるという事である。
よい手と悪い手があって中間の手がないとも言える。
最も鋭いゲームはニムであろうが、ニムになってしまうと形勢がない。
尤も神様にとってはすべての完全情報ゲームはニムなのだろう。
鋭いゲームは先手(後手)必勝である。これを私は収束型ゲームと名付けた。
連珠は強い収束型ゲームであり、連珠のルールの歴史は先手必勝との
戦いの歴史である。
鋭いゲームというのは、ゲームのバランスがピンポイントで
とられている。ルールの一部をちょっと変えるだけで、たちまち先手必勝に
なったり後手必勝になったりしてしまう。簡単に先手や後手が必勝に
なってしまうゲームは悪いゲームなので、そうなればルールの手直しを
するしかない。ただし、慎重に直さないとシーソーはたちまち反対に
傾いてしまう。ではこのような状況を打開するにはどうすればいいのだろう。
これも結論から言うなら、引き分けを増やせばいいのだ。
ではそのような理由で15道になったのだろうか?
連珠のルールの変遷は、先手必勝との戦いという側面がある。
三三を許した普通の五目並べでは、先手必勝はほとんど自明である。
三三を禁じた私が子供の頃にやっていた五目並べも先手必勝である。
そこで三三を先手だけに禁ずるルールが考案された。先手は
三三を打っても打たされても負けで、後手は自由に打てるというのだから
相当なハンデである。しかしこれでも自由打ちなら先手必勝である。
そこでさらに、長連(六)も先手だけに禁じ、四四も先手だけに禁じた。
この辺りで19道を墨守する人々と意見が割れてくるのだが、
とりあえずこは、六も四四も先手だけに禁じたとしよう。とろが
それでも自由打ちにすると先手が勝つことが分かってきた。
ではどうすればいいか。一つは珠型を工夫する方向で、これは後述する。
もう一つは盤を小さくするという方策である。盤が大きいと先手必勝でも
盤が小さければそこまで行く前に満局になってしまう。
これが15道になった最初の動機ではなかったろうか。
これはいい方策であったろうか。
19道で満局引き分けというのは非常に珍しい。一方15道では、満局は
高段者どうしだと、決して珍しいものではない。
これはよい解決策になったと言えるだろうか。必勝の一部を引き分けに
塗り替えることで必勝を減らす。たしかに減ったがその代わり
当然引き分けは増える。これはよかったのだろうか。
今述べたことは、「連珠の盤がなぜ15道か」を説明はしている。
しかし果たしてこれは本当なのだろうか。
現在15道ルールには、桂8種、間8種、連8種の合計24の珠型が、
19道ルールには、直接13種、間接13種の合計26の珠型が、
定められている。両者は盤端の距離の差異によって若干の異同は
あるものの、ほぼ同じである。
連珠に馴染みのない方のために若干の補足をしておくと、
珠型というのは、3手目までの形を言う。3珠交替打ちならば、
仮の先手がまず珠型を示し、仮の後手がそこで本当の先手か後手を
選ぶというやり方をする。これだと仮の先手が先手に有利な型を
選んでも後手に有利な型を選んでも、仮の後手に有利な方を
取られてしまうので、形勢不明の珠型を選ぶしかない。
なかなか優れた工夫で、一般ゲームでは例えばスナップなどが
このルールを採用している。(スナップは1手交替打ちだが)
さて、長年の研究によりこの珠型については面白いことが判明してきた。
24ないし26の珠型が、先手に有利なものから後手に有利なものまで
ほぼ線形に並ぶのである。しかも、先手と後手が互角なイーブンポイントは
盤の大きさによって若干移動するのである。
珠型は、浦月・花月のように先手必勝のものから、流星・長星・
彗星のような後手必勝のものまで(彗星は15道にはない珠型)、
ほぼ線形に並ぶことは前回述べた通りである。だから3珠交替打ち
にするなら、これらの珠型が選ばれることはない。当然先後互角の
珠型が選ばれ、それは盤の大きさによって、また研究の進捗によって
若干移動する。ということは逆に言えば、3珠交替打ちをする限り
かえって盤の大きさは関係がないということである。なぜならば、
どのような盤の大きさであっても、十分勝負がつくだけの大きさが
確保されれば、結局はその盤の大きさでの平衡点にある珠型が
選ばれて打たれるだけのことであるからである。
では、15道になったのは、単に歴史的な事情によるものだけなのであろうか。
大正10年に、京都の前川直之助は「連珠の独立盤を創るべし」という
提案をしている。独立盤とは、碁盤との併用でない、連珠専用の盤を
確立せよということである。15道になったのは、ではこのような歴史的
というか政治的というか、政策的な判断にだけよるものであろうか。
その要素は大きかったが、もちろん物理的な必然性もあったに違いない。
次にそれを考えてみよう。
「連珠は囲碁の余技ではない」と主張したかった連珠の先覚者たちが、
15道を創ったのは分かった。だがではなぜ17道でも21道でもない15道なのだろうか。
17道では差異が目立たない、21道では作るのが大変だ、というような事情は
もちろんあったろう。だがではなぜ15道なのか。
一つには50手ルールがある。50手ルールと言うとチェスみたいだが
そうではない(雰囲気は似たとろがあるけど)。つまり黒白50手ずつ
打っても勝負がつかないときは引き分けという、古い19道のローカルルール
である。つまり100手以内に勝負をつけよ、ということで、勝負がそこまでいくと
あとはどちらが不注意かのゲームになってしまうから、やめようということだろう。
しかしこれも100手目に打った四三はどうなるのか、などと問題もある。
それなら15道満局引き分けは合理的である。これは理由の一つだろう。
だが15である決定的な理由になるだろうか。
行き詰まったときは実験をしてみるに限る。
試しに13道の盤で連珠を打ってみよう。打ってみるとたちどころに
判明する。13道では全然だめである。盤端がすぐやってきて、
勝負にならない。囲碁も盤端は影響力を持つが、連珠はもっとだ。
盤端まで3つまで近づいただけで四三が打てない。そして13道では
盤端まで3つは指呼の距離である。
言い換えれば、13道ではゲームとして成立しないのである。
これで私なりの結論は得られた。
「15道は、ゲームとして成立する最小の大きさである。」
◎ ゲームの定理
この考察から次のような一般法則が導けそうである。
「ゲーム盤の大きさは、そのゲームを面白く成り立たせるうちの最小がよい」
この一般法則は、実は上記以上に普遍的で、何もボードゲームに限らない
と思われる。
4) 手本引きの札はなぜ6枚か
数年前の事である。東京の法政大学の講堂で遊戯史学会の総会が
開かれた。歴史家の網野善彦氏の講演のほか、私も演台に立ち、また
中国の麻国欽氏の講演もあるとても充実した会であった。
私自身の講演では、私はゲームが実践文化であることを述べた。
ゲームはやってみると分かる部分がある。私はこれをゲームの史的解析と
仮に名付けているが、悪いネーミングなので講演では名称は言わなかった。
(もっといい名前はないでしょうか)
さて、講演の後に質疑の時間が設けられた。その何番目かの質問に
「手本引きの札はなぜ6枚なのですか?」
というとても(私にとっては)重要な質問がなされた。
私にはこれに対する仮説があったが、司会者が回答を増川氏に振った
ので、歴史的な回答にとどまった。
もちろん歴史的な理由は重要であるが、私の立場としては、実践的な
回答をするべきであり、私は挙手をして発言を求めるべきであった。
ただ、私のも単なる仮説であるし、実験的な裏付けを殆どしていなかった
ので、もう一つ勇気が出なかった。
そこで、ここで、当時考えていたことを述べてみよう。
考察そのものは、当時から前進してはいないので、あまり説得的にはならない
かも知れないが。
私の今回のテーマは「手本引きの札が6枚である必然的理由」である。
手本引きの引き札(ということは当然、張り札も目札(前綱)も)は、6枚である。
なぜ5枚でも7枚でもない6枚なのだろうか。5枚とか10枚というのは、
なんとなく説得力がある。何しろ10進数の世界なのだから。ルーレットの
36にも必然性はありそうだ。36は過剰数、つまり約数が多い。いろいろな
賭け方のできる36は、合理的な数と言えよう。
では手本引きの6は何だろうか。
歴史的な必然性は、少しは分かる。手本引きの歴史は未だ詳らかでないが
その前身は恐らく賽本引きであろう。親の振った賽の目を当てる賽本引きは
結局は6までしかないルーレットである。ところがそれがカードになった瞬間に
ゲームは本質的に変化した。親の意志を当てるゲームになったからである。
その際、賽に倣って札の数値を1~6にしたのは、自然なことであったろうと
思われる。だが、もしそこに何らかの合理性がなければ、早晩6枚札は
淘汰され、5枚とか7枚になっていたであろう。(もちろん単なる習慣
ということも考えられないではないのだが。)
では、どんな必然性が予想されるのであろうか。
ここでも結論から述べるなら、かなり感覚的というか心理的な
理由によるのであろうと、推測される。
こうした「当て物」の選択肢の最少は2である。
丁半やバカラは、文字通り丁か半か、プレーヤーかバンカーか、
二つに一つである。大小、大目小目、などいくらでもある。
ただそれらはすべて「偶然を当てる」ゲームである。
もし意志を当てるゲームで2択だとしたら、恐らく面白くないであろう。
なぜなら、偶然当てたのか、親の意志を当てたのか、判然としないからである。
では選択肢3はどうだろうか。選択肢3のゲームは三竦み拳がそうだ。
大中小もそうだが、れは偶然を当てるゲームだ。一方藤八拳は、
ある意味で相手の意志を当てるゲームとも言える。ただ相手の意志が
奈辺にあるかをゆっくり考察して当てるというより、反射神経的に
当てたり外したりするアクションゲームとしての性質が強い。
このような性質をもつ「当て物」に3は、適切な数の一つと思われる。
選択肢4には、ファンタンやヨイドがある。これらもほとんど
偶然を当てるゲームとしか言えない。
選択肢5には、五竦み拳がある。これも偶然を当てるのに近い。
選択肢6には、蝦蟹や、狐、チョボイチなどがあり、これらは全て
偶然を当てるゲームである。しかし球磨拳の古いタイプには、親の拳を
当てるタイプの六竦み拳がある。
選択肢7や8には、競馬などの賭け方がある。これは偶然に賭けて
いるように私には思えるのだが、マニアはレースの予想をする。
これは親の意志をあてるのではないが、現象としての天意を当てる
ゲームと言えないこともない。
選択肢が10もあるブールや、36もあるルーレットなどは、完全に
偶然の支配する領域に立つことになりそうだ。
前回の考察から、「親の意志を当てる」というこのゲームの性格上、
6枚にはある種の必然性があると想像される。
もし手本引きの札が2~3枚だったら、偶然当たっているのか、
親の意志をあてているのか分からず、手本引きの意味がない。
かと言って10枚も20枚もあった場合、今度は全然当たらないだろう。
ダイスで特定の目の出る確率は6分の1である。これは16.7%
言い換えれば2割弱、当たり前だが5回に1回より少し少ない。
バックギャモンのぞろ目の確率と同じである。
さて、あなたがダイスで1や6を念じるとき、バックギャモンでぞろ目を
振って逆転を果たそうとするとき、その目は出るだろうか。
言うも馬鹿馬鹿しいが、確率的には6回に1回出る。
しかし私の主観だが、まあ出ないのである。だが6ぞろ
(3%弱)を狙うのとは違う。たまには出るのである。
まあ出ないのだがたまには出るのが6分の1のような気がする。
(極めて曖昧な表現なのは、私自身の心理を語っているからであって、
決していい加減な考察をしている訳ではない。実感を共有していただければ
幸いである。)
ロシアンルーレットと呼ばれる、究極の「ゲーム」がある。
リボルバーに弾丸を1発込めて回し、銃口をこめかみに当てる。
あれは6連発に1発だから怖いのである。もし5発込めてやるはめに
なったら、もう諦めるしかないだろう。逆に60連発なら、まず当たるまい。
(十分怖いけど)6分の1は、まあ死なないけどたまに死ぬのだ。
ヘヒナーの法則だったかな? 人間の感覚には最も感受性の高い
領域がある。確率が半々のような場合は、ある意味で確率の感覚は不要だ。
また2%以下の場合も、めったにないのだからある意味で
感覚の閾値外と言える。6分の1は確率における黄点(中心窩)
なのではないだろうか。人間の確率感覚の最も鋭敏な領域が
6分の1辺りにあるのではないだろうか。
これまた主観的・感覚的な話で申し訳ないのだが、確率20%、
つまり5回に1回ぐらいまでは、結構あてずっぽうで当たってしまうことがある
ような印象を持つ。しかし20%を下回る現象に関してはあてずっぽうでは
もうだめである。何らかの根拠を持って当てなければ、一向に当たらない
という気がしてくる。これが手本引きの札が6枚である理由なのではないか。
私は、手本引きの札が6枚である他の物理的な理由も知っている。
もし手本引きの札が10枚もあったなら、札師は片手で札繰りをすることは
不可能だろう。もちろんやってできないことはないだろうが、失敗は
許されないのだから、事実上できないと思われる。逆に3枚の札なら
芸の領域まで昇華することはなかったであろう。
もっともこれらは因果関係が逆なのが真実だろう。6枚であるから
あのような作法になったのであろう。
5) モノポリーのマスはなぜ40マスか
江場さんのおっしゃるところの『ゲームの考察』シリーズ第5弾は
モノポリーです。モノポリーのマスはなぜ40マスなのでしょう?
モノポリーの盤は、さすが長年生き抜いて来ただけあって、それなりに
洗練されている。振出から10で監獄、そこから10で…とコーナーごとに
10ずつで行けるのはとても数えやすい。また各辺の中央に鉄道があって、
鉄道ごとの間隔も10ずつである。これも数えやすい。コーナーから鉄道、
鉄道からコーナーも当然のことながら5である。こうした合理性も
もちろんだが、モノポリーの盤が40マスであるのは、また他の理由も
潜んでいるのではないだろうか。その点を考察する。
これも結論から述べるなら、3軒からなるカラーグループが8つ
あるからではないだろうか(そのうち2つは2軒からなっているが)。
これに、コーナー、鉄道、公益会社、税金、カードなど、土地でないマスを
ほぼ同数加えると40マスになるという寸法だ。
ではまずなぜ3軒なのかを考えよう。
それは、モノポリーを土地交換のゲームにするという製作意図があったから
であろう。これがモノポリーをモノポリーたらしめている訳だから、極めて
重要である。モノポリーを交渉による土地交換のゲームとするためには、
まずカラーグループの価値を高めねばならない。互いに2:1で持って
いる2つのカラーグループがあれば、その1枚を交換することで
両者はともに大きな利益を得る。それはカラーグループがそろわなければ、
家が建たないからである。モノポリーにおけるカラーグループの
価値は絶対的である。
では、それがどうして3軒なのか。
モノポリーのマスがなぜ40マスかを考えているが、カラーグループが
3つの土地で構成されていることも一因であろうと私は思う。
ではなぜカラーグループは3つの土地で成っているかと言えば、
2つだと、ダイスの目だけで揃えられる場合があるからであろう。
現在でも「パークプレイスでぞろ目を出」せば自力でカラーグループ
を揃えることができるので、これは理解できるだろう。
現行のモノポリーでは2つでカラーグループとなる土地は、振りだしから見て
最近と最遠の場所にある。だから2つでもゲームの序盤で簡単に
一人で揃えることはできにくくなっている。さらに一方は安すぎ、
一方は高すぎて経営しにくくできている。
残った6つのカラーグループは全て3つの土地で構成されている。
土地が接近している3つだと、ゲームの序盤で一人のプレーヤーが
ダイスの目だけでカラーグループを揃えるのは難しい。
結局1枚ずつ3人で持つか、2枚1枚と二人で持つかになる。
ここに交渉の始まる理由がある。
では逆にカラーグループが4つ(以上)で構成されていたらどうだろう。
4人で1枚ずつ土地を持った場合、この交渉は纏まるだろうか。
纏まるにしても時間と労力は相当かかるであろう。
というわけで、3枚である必然性があるように、私には思える。
前回でカラーグループを構成する土地の数は3つが適切であることが
分かったと思う。ではカラーグループ自体の総数はいくつがいいだろう。
この場合、プレーヤーの数が問題になろうが、まあ5人程度と見て
よいだろう。5人がカラーグループを持ち合うのだから、最低5個は
必要だと思う。しかし15個もある必要はなかろう。(もっともプレーヤー
の所持金を増やして(あるいは土地の値段を下げて)、カラーグループが
15個もあるモノポリーを作っても、それはそれで面白いかも知れない。
ただし現在のモノポリーとは明らかに違うゲームになろう。)
私の考えでは、カラーグループは多すぎても少なすぎても、交渉の
余地が減少すると思う。土地を3枚ずつ持っていて1枚を交換は
できるが、土地を1枚ずつしか持っていないプレーヤーが
地権の交換をしてもしょうがない。逆に矢鱈と土地のある場合は、
自力で揃える可能性も増すだろうし、序盤で交渉が済んでしまい、
序盤で運よく土地を買えて交渉ができたプレーヤーだけが勝つような
展開になりがちであろう。
すなわち想定しているプレーヤーの人数の1.6倍は、
妥当なところなのではないだろうか。
以上