扇はあおぐものではない

投扇興を知ったのは、やはりH君経由であった。1970年ごろ国会図書館で投扇式や投扇新興を見つけて、紹介してくれたのである。私達は、おひねりを的に普通の扇子で試したが、不明な点は多かった。

1982年に宮脇売扇庵の投扇興セットを手に入れた。この年はなかよし村の創立の年だが、面白いことに東都浅草投扇興保存振興会の創立の年でもある。私は投扇興の団体を探したのだが、当時は見つけられなかったのだった。

国会図書館の資料をもとに、宮脇の道具を用い、目白のルノアールの二階に緋毛氈を敷き、投扇興をなかよし村で初めてやったのは、1983年10月29日土曜日の第83回例会であった。

S氏はこの日のために、わざわざ綿入れ半纏を着てやってきた。ただし半纏と投扇興の間に何か関係があるかどうかは、まったく不明である。S氏はこのとき、今で言う「みをつくし」を出している。

一方N氏はコツリを連発したが、まだ当時はコツリという名称はなく、「暴走蝶が花台に激突するのはN雲氏。」と覚書に記されている。

こうして確かに投扇興は楽しめたのだが、資料には落丁もあり、解釈のつかない記述もあって、落ち着きが悪かった。それでも、宮脇の扇がボロボロになるまで遊んだものである。

私が東都浅草投扇興保存振興会の存在を知ったのは、それから数年後だったと思う。

初めて浅草の見番に言ったときは、カルチャーショックを感じた。まず「和風体育館」とでも言うべき「見番」=「浅草三業会館」の存在に驚いた。芸者さんの稽古場で、名称は知っていたが、中に入るのはもちろん初めてであった。と同時に、玄関に掛けられた提灯などに、不思議な懐かしさを感じた。

見番のすぐ先には、駒形橋があって隅田川が流れている。私はその隅田川の上流で生まれ育ったのである。

隅田川は紆余曲折を経てきた川である。大昔は入間川であり、江戸時代は荒川であり大川であった。1910年、新河岸川と荒川の合流点に岩淵水門ができ、荒川放水路と隅田川に分流した。私の育ったこの隅田川の開始点を、だから私は「荒川」と呼んでいた。桟橋から落ちて溺れかけたこともある。

この辺りは小さな工場と住宅がゴミゴミと立ち並ぶ、下町よりもっと下町の地帯である。荒川は、私が「春のうららの隅田川」と同じ川とは長いこと知らなかった、濁った川であった。辺りは工場の硫化物の匂いがしたが、私にはこれも懐かしい匂いである。川には、焼け焦げて炭になった太い棒杭が、流れの中に立っていた。後で聞くと戦災で焼けたものが、そのまま何年も放置されたものだと言う。

終戦後の貧しい、そしてあっけらかんとした時代と地域には、だがその時代と地域の人情が息づいていたように思う。私が見番の障子を開け、畳の部屋にあがったときふと思い出したのは、そうした情景と息遣いだったように思うのだ。

ある正月の会の時に、何のきっかけ(誕生日?)か忘れたが、ある会員に財布が贈られた。そのとき年配の役員が、

「空じゃあいけない、種銭を入れなくちゃ。」

と言ったら、そうだそうだと言うので、他の人が五円を取り出してその場で入れ、改めて贈った、ということがあった。私はその瞬間、何十年も前の幼児の頃を思い出した。

私の育ったところでも、空の財布を贈るのはよくなくて、必ずお金にご縁があるように五円を入れ、それを「種銭」と呼んでいたのを、まざまざと思い出したのである。その懐かしい想いは得がたい感傷であった。

さて私は勿論、投扇興そのものにも魅了された。まずルールが確定しているのがいい。そして「これより○○殿と××殿の対戦を行います。一堂礼。」から始まる様式美も感心した。「見立て」という思想も面白い。

私は投扇興のことを「日本のダーツ」と人には紹介してきた。伝統的な遊びを外国の遊びになぞらえなければならないのは、矛盾を感じるが、ゲームのニッチェという観点からは示唆的な考え方とも思っている。しかしダーツと投扇興では、その思想というか哲学と言うか、要するに捉え方に隔たりがあるのだ。そしてこれは実に興味深い。なぜならダーツはゲームであり、準スポーツであるが、投扇興は遊びであり、雅であるからである。

東洋や日本の文化を特殊視する考え方に、私は組するものではない。また現在の保存振興会の投扇興が、本当に伝統に則ったものであるのか、疑問があるのも理解している。しかし、私は、それでもこの保存振興会の業績を高く評価したい。

そもそも伝統というのは、創られるものである。単に過去のものを伝承するだけでは伝統とは言えない。普段に「現在」と切り結び、新たしい命を吹き込んでこそ伝統である。

「見立て」というのは、ゲーム的と言うより、遊び的である。スピードスケートよりフィギアスケートに近い。不合理な側面もあるが、美意識に訴えるものもある。それは日本固有の美意識であるかも知れないし、もっと普遍的なものであるかも知れない。少女漫画の美意識と、内容では隔たりがあるが、現象としては近しいものを感じる。

相撲は勝負は一瞬だが、仕切りは延々と続く。土俵は普通には見られないが、場所直前に盛り土をし、御幣を立てて土俵祭りが納められる。呼び出し、行司の衣装、小道具、勝ち名乗り、中入り、土俵入り、弓取り式。こうした様式美をプレーヤーも観客も味わうのである。

投扇興を私が復元したら、こうはならなかったろう。私だったら、的の蝶(字)に当たれば一点、落とせば二点、後の色物は頻度に応じて一点~十点のボーナス、などとしそうである。そうした「スポーツ投扇興」もそれはそれで面白いし、やってみたいとも思う。だが、いかにも日本文化を感じさせる、現行の様式美も素晴らしいと思うのである。

伝法院の池も枝垂桜も、野点も琴の音も素晴らしい。仮構の日本という気も、仮構こそ日本という気もする。

それからの私は、せっせと知り合いを見番に誘った。ゲーマーの中にも、投扇興に魅了される人は多かった。もちろんその大半は、スキルゲームとしての投扇興の楽しさによるのであろう。だが、私の真意は、ゲーマーにあの見番の空気を体感してもらいたかったのだ。あの、鶯谷からの坂をバイクで降りていくと、もう歩く人の立ち居振る舞いや着る物、立ち姿がなんとなく違う、あの空気をである。

現在の保存振興会は、権威主義的だとか、閉鎖的だとか、独善的だとかの批判もある。確かにそういう傾向も否めない。だが私はそうしたものを含めて、高く評価できると考えている。あの投扇興は、あの見番の土壌と空気に育ったのである。

ある暑い日に、私達が扇で自らに風を送っていたら、つまり扇としての本来の使い方=扇いでいたら、何と主催者に叱られてしまった。

「無作法です。扇はあおぐものではありません。投げるものです。」

我々は、この作法と無作法の逆転に、神妙な顔をしつつ笑いをこらえるのが辛いほどだった。だが、ここには逆説的な真理が、端的に表されているのかも知れないのである。

 

(mixi日記 2006年5月01日 より)