ゲームマーケットの誕生
いよいよ明日は浅草で午前10時から第7回ゲームマーケットが開催される。この機会にその草創のころの話を書いてみよう。
そもそもの原点はコミックマーケットである。いや正確にはコミックマーケットでないことである。
私は、中学のときに「漫画評論家」を志した。「漫画評論家」と聞くと、現在の皆さんはどのように感じられるだろうか。少なくとも、1960年代前半には、「漫画」と「評論家」は結びつく単語ではなかった。実際、親には笑われた。
当の私も何をしていいかわからなかった。
私の家は千代田区にあったので、よく神田に「ひやかし」という立ち読みに行った。あるとき東京堂でガロを見つけ、あるときSFマガジンの創刊号を見つけた。ガロの編集部には、後に通うようになるが、具体的に私がどうすればいいかは何も分からなかった。
大学では漫画研究部に入ったが、私は絵が描けない。絵の描けない漫研部員は何をしたらいいのか。
「漫画主義」という雑誌―誰も知らないだろうが―も読んだ。権藤晋とか、石子順造には会いに行った。だが、彼らの言説とは、もう一つ重ならなかった。私が唯一自分から会いに行った漫画家は、そのころの池上遼一だが、会っても結局自分の道は見つからなかった。
SFフ科会が、渋谷の霞で例会をやっていたとき、少女漫画のファンダムと隣り合って、感動した。うぃーあーのっとあろーん! あとは、とり・みきの自伝的漫画を見ると、概ね様子は分かろう。(余談だが、とり・みきは、人吉の出身だそうだ。うんすんかるたは、できるのだろうか。)
ファンダムもどきの活動をしても、自分の場所はよくわからなかった。相田洋という人の、「漫画新思想体系」に投稿もしたが、それから先、どうしていいか分からない。
そんなとき、コミケの前身と、後から思えば思える催しに誘われた。私は自動車を持っていたので、役に立ちそうだったが、たまたま何かの用があって行けなかった。このとき行っていたら、私の運命は違ったものになっていたかも、という気もする。良し悪しは別として。
ここで行きそびれたので、何となくその後も行かなかった。だがコミケは発展した。
一度も行ったことのないのに、その原因を分析するのも変だが、私の考えるコミケ成功の要素を一つ挙げてみよう。
それは「物」であると思う。もっと言えば「交易」だ。
私がファンダムもどきの活動をしても、ただ集まってお話をしてそれで終わってしまう。(同人時代の「超人ロック」が回し読みで読めたのは収穫だったが。(まさかその後、聖悠紀の弟と付き合うことになろうとは。))
その先がなく、そのアイディアは浮かばなかった。「11月のギムナジウム」のように映画を作ってしまう、という手もあったが、そしてこれを前妻と、弟を連れて見に行ったが、これでは手間取りすぎて続かないと思えた。
ところで、日本には、古くから中元・歳暮の習慣がある。良い悪いは別にして、贈答にはお返し、旅行をすればお土産の風土である。私はこういうのは嫌いなのだが、しかしこれは物を貰いたいというような、物質的な利得だけで語れないものが確かにある。つまり、日本人は物を通じて会話をし、物を通じてコミニュケーションを図り、物を通じて結びつくのである。「市」は、商品の交易だけでなく、人が、情報が、情愛が飛び交うフェア、つまり祝祭なのである。
私はコミケには行きそびれたので誤解なのかも知れないが、私がコミケから間接的に学んだのは、これである。
だが、方法論を持たない私の野望は成就せず、その結果やがて私は漫画から離れて、ゲームに走った。(笑)
ゲームはゲームで、知られざる楽しみの宝庫であった。私はゲームの楽しさを人に知らしめることに、今度は夢中になった。そうした中で、まったく違う人の輪もできていった。「なかよし村とゲームの木」は、そうした集まりであった。
正確は覚えていないが、それは1998年のことだったと思う。パソコン通信のニフティのFGAMEで、ゲームのバザールができたらいいね、という話題が出たとき、私の頭に浮かんだのは上記の思いであった。それは素晴らしい。ゲームという楽しい「もの」を媒介にして結びつくフェアができたなら、こんな素晴らしいことはない。
意見が活発にやり取りされ、私は本気になった。
しかし、「やりたい」と「やる」の間には、果てしない飛躍が有る。私は運動会の計画書は何度も書いたが、イベントを主催したことなど一度もない。いや、イベントには行ったこともない。そもそも、とりあえず、何をどうしたらいいかすら分からない。
そこでまず相談したのは、安田均氏である。彼は、イベント主催の能力を買っていたY君を紹介してくれた。尤もY君は、なかよし村の村民で、以前からの知り合いだった。
Y君は、簡潔に条件を出した。
「カタログを作れる人がいたらできます。私はイベントの主導はできますが、カタログは作れません。」
これは、ゲーム仲間のMさんが、私は作れると言ってくれた。これでスタートだ。
後は、FGAMEとなかよし村の仲間を募った。1999年の一年をかけて準備をすることになった。今でこそゲームマーケットのイメージはあるが、何もないところにつくるのだから、イメージそのものが湧かない。何がどうなるのか。ブースと言ったって出す人がいるのか。
ここで話が再びコミケに戻る。チラシをコミケで配ったら、30近い参加者が集まったのである。これは私が驚いた。私はJAGAやボードウォークでも宣伝したが、彼らはゲーマーであって、ブースを出すような意志もノウハウもないのは当然だ。だが、そのような「意志」や「ノウハウ」は、実はコミケで熟成されていたのであった。
これは、言説にはなかなか上らないが、現代日本の文化の成熟を物語っていると思う。こうした文化は、サブカルチャーなのかカウンターカルチャーなのか何なのか、よくはわからないが、現代の若者はそうした確かな文化を体現しているのである。
何もかも初めてで、分からない事だらけであった。手探りを重ね、さんざんの苦労の末、2000年4月2日日曜日午前10時半、第一回ゲームマーケットは、神田パンセ8階ホールで開催された。ブースは32を数えた。
私はその時点で、18年間ゲーム会をやってきていた。その経験ではっきりしたことは、ゲームはなかなか人が集まらない、ということであった。ここでも200人の来場は見込んでいたが、100人未満だったらブース出展者に申し訳ないなあと考えていた。そうしたら400人も来てしまい、会場に溢れた。
こんなことは、18年間ゲーム会をやってきて、初めてのことであった。
ゲームマーケットのスタッフは、手弁当である。みんなアマチュアである。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという組織の分類が有るが、ゲマインシャフトともゲゼルシャフトともつかない、不思議な組織である。
金銭的にも、毎年、赤黒トントンである。赤字にはならないが、儲かったことはまったくない。いや、黒字にしようという意図がないと言うべきか。いやいや、有能でかつ素人のスタッフを無限に拘束して運営しているのだから、超赤字と言うべきかも知れない。
入場料を500円より上げたら、とか、2000円の出展料は安いのでは、という声もスタッフから上がることもあるが、ここは私の我がままを通させてもらっている。私の気持ちはゲーマーの交流であり、コミケやSF大会に遥か源流を持つ、こうした「我らが文化」に対する、恩返しだからである。
ゲームは楽しく、ゲームを通じて人と結びつくのは、更に楽しい。それが手作りならなおさらである。毎年、短い時間でもサークルの集いを必ず入れるのも、そういう気持ちからである。
今年もまたみんなで楽しんで欲しい。そうでなくては、無償で苦労を背負ってくれるスタッフに、私からの申し訳が立たない。
さあ、七回目の朝が来る。
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