ゲームの受容とゲーム文化

断るまでもないと思うが、ここで話題にするのはアナログゲーム限定である。デジタルゲーム(電源ゲーム)は、かなり様子が異なると思うが、私には分からない。

日本は古来さまざまな外来文化を受容してきた。ゲームに限っても、囲碁、盤双六、ショーギ、格五(五目並べ)、南蛮カルタ(トランプ)、西洋カルタ(トランプ)、麻雀、チェス、チェッカー、バックギャモンなどなど、枚挙に暇がない。

そしてそれらは、全くそのままの形で取り入れられることはむしろ珍しく、日本風(?)にアレンジされて、あるいは大きく変形して取り入れられている。更にルールそのものは改変されなくても、文化の中での位置づけや受け取り方が、本来のものと大きく変わったものも多い。しかしそれは、あたかも生物種が、さまざまな異なった環境のそれぞれに対して適応・放散し、進化していくのにも似て、ゲームの多様性と可能性を増し、大きな文化的遺産へとつながっているとも言える。

例えば、将棋は日本で大きな多様性と完成度を見たゲームである。囲碁に関しては「置石の除去」という大きな貢献と、「終局の曖昧さ」という大きな遺恨と、功罪半ばしている。盤双六のルールの改変は、結局 盤双六自身を滅ぼした。オセロ(リバーシ)の初期配置も改悪としか言えないだろう。

ジャンル全体だけでなく、一つ一つのゲームも、そのゲームが最初どのような形で移入されたかによって、その後の扱いに決定的な影響を与えてしまうのは、よく見られることである。ゲーム本来の性格とはあまり関係なく、「これはAという性格のゲームだ」として移入されたものは、その後日本ではずっとAだとして捉え続けられる傾向がある。逆に言えば、最初たまたまそのゲームが「Bである」として移入されたら、今でもAではなくBとして捉え続けるだろう、ということである。

例えば日本における麻雀は、中国本国においてそうであったような庶民の遊びと言うよりは、文人墨客の高邁な趣味として入って来たような傾きがある。もちろんその後、学生・庶民へと広がっていくのだが、日本ルールのある種の高邁さと言うかストイシズムのようなものに、こうした移入期の影響を無視し得ないと、私は考えている。

コントラクトブリッジは、一層そうした傾向が濃厚である。高踏的で知的な趣味としての受容は、もちろんブリッジ本来のゲームとしての性格にも起因するが、必ずしもそれだけではない。例えば私の知る限り、ブリッジを賭けの対象としてプレーする人は、日本では稀である。しかし、真偽の程は不明だが、「外国では高額のラバーなんか当たり前だよ。」という話はよく聞く。ブリッジのような、システムやシグナル公認のゲームで、果たして本当に公正なギャンブルが可能なのか、些か疑問の余地もなしとはしないが、本当にそのような常態があるのなら、この差は移入期に求めてもおかしくないだろう。そう言えば、さるやんごとなき方がブリッジ連盟の名誉総裁であったりする。日本での当初の重要がどのようであったか、推して知れよう。

対照的なのはバックギャモンである。このゲームは、さいころを振るというアレア的な側面から、もともとギャンブルには馴染むものだが、それにしても日本選手権などの参加費が一万円とか三万円とか言われると、私のような貧乏人は竦みあがってしまう。私はここには移入期のギャモンの捉え方が影響していると思う。

そのまた反対にうまく行ったのは、近年のいわゆるドイツゲームである。例えばなかよし村の参加費は300円であり、時間当たりでも150円である。東京JAGAで600円、時間当たり75円、ボードウォークで500円、時間当たり65円くらい、かんぽで400円、時間当たり50円という安さである。これが袋小路では、200円、時間当たり25円、ゆうもあや水曜日の会に至っては、何と0円、時間当たり(笑)無料である。これで5時間も6時間も楽しく遊べるのだから、この秘密が公になったら日本中のゲームセンターの類が総崩れになり、廃業続出は間違いあるまい。(笑)

ただ、難点を言えば、一般家庭へ広まる契機を十分に持っていない、という点でがあげられよう。こうしたゲームのこれからの課題と言える。

私の見る限り、ポーカーは当初「はったりのゲーム」として紹介された。そこでは「ブラフのゲーム」という言い方がされていた。しかし、確かにブラフは有効で必須な戦略とは言えるが、決して本質ではない。濫用しないところに技術があるわけであるが、当初はそれが理解されていたとは言いがたい。

もう二十年近く前に、新宿などにあったポーカーハウスには、どんな手でもコールする人が溢れていた。もちろんそんな人たちばかりなら、その中の誰かか勝つわけなので、そういう性格のゲームに変貌はするが、それなりに楽しめるだろう。私はそんな中で、本当によい手のときだけ出て、あとは全て降りるという単純な作戦で、連勝できた。何せ負ける手は全てアンティ(参加費)だけで降りて、勝つ手だけ賭けるのだから濡れ手で粟だ。私がナッツ(一番強い手)でいくらレイズやリレイズしても、みんなでコールしてくれるのだから、こんな美味しい話はない。

現在は、一部の人たちの努力によって、ポーカーの本当の姿がちゃんと紹介されるようになってきた。柏木などで私が参加しても、まあまあ中位の成績であり、昔のように連戦連勝というわけには全然行かなくなった。(それどころか「昔は連戦連勝だった。」と言っても、誰も信じてくれない。)しかし、これはいいことである。ゲームの本当の姿が伝わった証だからである。

ドミノ、天九牌、象棋、チャンギ、などは、まだ受容されたとも言えない段階である。健全な受容をされ、大きく広まることを期待している。

 

2008年01月06日mixi日記より)